抱擁のかけら(ペドロ・アルモドバル)

 アルモドバルの新作である。
 結論からいえば、おそらく賛否両論だろう。過去の名作や巨匠、女優たちにオマージュ、自らの旧作にまで及ぶコラージュ(かけら)の数々。まさに、「すべては起こってしまった」とばかりの引用の織物だ。

 映画監督マテオと大富豪エルネストによる女優レナ(ペネロペ・クルス)をめぐる激しい争奪戦。それは、レナ主演の劇中劇『謎の鞄と女たち』の監督とプロデューサーとの闘いに発展する。映画は、資本と対決して作り得るか――この普遍的なテーマを、だが、例えばそれを、ヴェンダースの『ことの次第』のようにそのまま表現するのではなく、あくまで、アルモドバル流のドラマ仕立てで見せる。

 レナへの独占欲と執着から、エルネストによる撮影妨害はエスカレートする。自ら映画のプロデューサーになるとともに、息子を撮影現場に送り込み、メイキングビデオと称して、恋に落ちたマテオとレナを盗撮魔のように追いかけ回させるのだ。二人の親密な映像は、その日のうちに父の許へと届けられ、その音のない映像を読唇術師が解析、二人の会話は完全に再現される。「エルネストはまったく芸術を理解しない!」。レナの一言は、「映画(芸術)」対「資本」という今作の構図を浮き彫りにしていくだろう。

 親子の妨害に嫌気がさしたレナは、ついにエルネストとの別れを決意、息子の回すビデオに向かって親子を激しく罵倒する。その映像を見ていたエルネストの背後から、荷物を取りに戻ったレナが、自らの放った罵倒のセリフをアフレコするシーンが見事だ。

 はからずも、このときエルネストは、自らが出資した作品のメイキングに、主演女優自らアフレコする現場に立ち会うという、ある意味でこの上なく贅沢な状況に遭遇していることになる。しかもそれは、この世で絶対に失いたくない唯一の女性から、別れを告げられるというシーンとして演じられるのだ。この作品においては、すべてが映画的なのである。

 マテオとレナの、エルネストからの逃避行もきわめて映画的だ。二人は、旅先で身を寄せ合うように、ロッセリーニの『イタリア旅行』を見ては、その抱擁シーンに涙する。そして、主人公の二人を模倣するように、火山ならぬ岸壁で熱い抱擁を交わす。

 むろん観客は、このマテオとレナに、ロッセリーニとバーグマンの関係を重ねずにはいられないだろう。ハリウッドでの名声を投げ打って、ロッセリーニのもとへと走ったバーグマン。その熱意に応えるように、またハリウッドに対抗するように『ストロンボリ』『ヨーロッパ一九五一年』『イタリア旅行』と立て続けに傑作を生み出していったロッセリーニ。巨大資本と闘いながら、映画監督と女優は、互いの愛と信頼によってひたすら映画を作ってゆく。『イタリア旅行』を見たゴダールの言葉――「男と女と車があれば映画は出来る」――も、本作の二人を、そしてアルモドバルを鼓舞していたことだろう。

 二人の最後はふいに訪れる。エルネストが、二人の逃避行の間に、でたらめな編集によって『謎の鞄と女たち』を滅茶苦茶にした挙句、勝手に公開してしまうのだ。二人は動揺し、再び車を走らせるが、その最中に衝突事故が起きレナは死亡、マテオは失明してしまう。

 これは、資本という映画の「父」に対する「父殺し」を敢行したマテオに対するオイディプス的な「罰」か。運命の主演女優との永遠の別れと、映像作家には致命傷ともいえる視力の喪失。その後のマテオは、「ハリー・ケイン」(オーソンウェルズを意識してだろう)と名を変え、『コロノスのオイディプス』のようにあてもなく生きていく。

 だが、ラストでどんでん返しが待っていた。とっくに葬り去られたと思っていた『謎の鞄と女たち』のオリジナルが残っていたのだ。それは、世に駄作として知れ渡ってしまったエルネスト編集版とは、似ても似つかない見事な映像だった(あの『神経衰弱ぎりぎりの女たち』を彷彿とさせる)。

 さらに、事故に関与していると思われていたエルネストの息子も、回していたメイキングビデオの映像から、彼が事故の第一発見者として通報していたことがわかり、嫌疑が晴れる。彼は「ライX」なる名の新進のドキュメンタリー作家として、映像作りの道へと突き進むことになる。映画=芸術を選択し、父の許では禁じられてきたゲイであることのカミングアウトをしていく彼の行動は、文字通りの「父殺し」といえるだろう。

 「映画は何があっても完成させなければならない」。ラストでそうつぶやくマテオの言葉は、これまでのアルモドバルの総決算の言葉か、はたまた新たな決意表明か。早くも次回作が気になるラストだった。

中島一夫