バクマン。(大根仁)

 これは、マンガ家を夢見る高校生二人が、「友情・努力・勝利」(『少年ジャンプ』のコンセプト)というイデオロギーの動員に駆り立てられ必死に奔走するものの、最後は「敗北」していくという物語である。

 現在「マンガ家」が、ネオリベ新自由主義)下にあって、いかに一発逆転的な人的資本と化しているか――(最近の、園子温が実写化した『新宿スワン』(キャバ嬢とそのスカウト)や、又吉直樹『火花』(お笑い)もこの文脈で捉えるべきだろう)。まさに「マンガはバクチだ」というタイトルそのものだ。

 むろん、これを敗北ではなく勝利の作品とみる向きもあろう。だが、これは、石川義正の説得力のある論考が論じるように(「大根仁と映画的な残余」『ユリイカ』10月号)、まぎれもなく敗北の物語なのだ。ここでは、石川とは別の文脈から述べよう。

 そもそも、この監督は、自らインタビューに言うように(『ユリイカ』10月号)、「ずっと「もつ者/もたざる者」のもたざる者の話をやってきた」。http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20131119/p1

 実際、今作の「サイコー」(佐藤健)と「シュージン」(神木隆之介)は、明らかに同じ高校生マンガ家の「新妻エイジ」(染谷将太)のような、圧倒的な才能(資本)を「もたざる者」たちとして存在している。

 当初二人は、エイジのごとく「王道」ものを描こうとするが、それでは絶対にエイジにはかなわないと悟り、「邪道」へと転向する。「邪道」とは、『少年ジャンプ』におけるそれであり、要は自分たちのような凡庸な者たちを描くこと、すなわちリアリズムで「学園もの」を描くことなのだ。まるで、英雄的な叙事詩ではなく、凡庸な生を描く小説が主流となった近代文学のように。だからこそ、サイコーが、同じクラスであこがれの「亜豆」(小松菜奈)をずっと「写生=スケッチ」して書き溜めてきた画が、「邪道」作品のヒロイン造形に役立つことにもなる。

 だが、この彼らの「邪道=近代小説」性こそが、彼らを「敗北」に追い込む当のものとなる。なぜなら、凡庸な者たちを描く邪道=近代小説とは、あくまで市民社会の円滑な機能と相補的なジャンルだからだ。もはや市民社会があちこちで水漏れを起こしている現在、それは相対的にアクチュアリティを失わざるを得ないのである。

 ネオリベ下の人間=労働者は、裸の個々人がそれぞれ資本(家)と見なされる「人的資本」と化している。隣の人間は、端的に競争する資本=敵なのであり、それは作中、『少年ジャンプ』連載中のマンガ家たちが、読者アンケートによって一喜一憂し、毎週しのぎを削っているさまに表されていよう。十位以下に落ちれば、即連載を打ち切られ、『ジャンプ』という配属先を失い、まさに「裸」のまま投げ出されざるを得ない。

 エイジは、こうした現在を体現する、まさに「王道」の存在である。彼は高校生でありながら、作中彼の学校生活は全く描かれない。彼は「友情・努力・勝利」など信じていない孤高の天才である。サイコーとシュージンが彼を「敵」と見なしていることは、相互の格闘シーンがあることからも明らかだ。二人は、直接的にはエイジに「敗北」するのである。

 サイコーが過労で倒れたときに、両者の対立が浮彫りになる。他の「手塚治虫賞」同期のマンガ家たちは、サイコー最大の危機に応援に駆けつける。まさに「友情・努力・勝利」で、何とか二人の巻頭カラーを実現しようとするのだ。

 エイジは、彼らが集まっている仕事場に訪れるものの、決して「友情」に加担することはない。もしここで、そうなっていたら大団円だっただろうが、作品はそうしない。ネオリベにおいては、「友情・努力」は「勝利」しないからだ(だからこそ、夢を売る『ジャンプ』のコンセプトになり得る)。エイジもそれがよく分かっているからこそ、自分の技術なら、サイコーの女神たる亜豆(のキャラ)をもっとうまく描けると彼の原画に筆を加え、サイコーのプライドを逆なでするだろう。

 あくまで作品のテーマは、ネオリベ下の「裸」の人的資本と化した(過労死しかねない)マンガ家という存在なのだ。おそらく、原作と異なり、連載を持つ彼らにアシスタントも付いていないという、実際にはあり得ない設定にしたのもそのためだろう(その意味で、描くときに文字通り裸となる「中井」(皆川猿時)は象徴的な存在である。ちなみに原作作画の小畑健は、監督の大根に「自分は高校生で世に出た主人公の二人よりも、ずっと芽の出なかった中井のようなマンガ家にむしろ親近感がある」と語ったという)。

 ラストシーン、その後アンケートで順位が下がり連載を打ち切られた彼らは、卒業式に出ない。学校生活において「何もしなかった」彼らは、他の連中と思い出を共有していないのだ。

 夢を追う彼らにとっては、かくも学校という市民社会は機能不全に陥っている(同じく声優の夢を追う亜豆は退学していった)。ある意味で、彼らは「入学」すらしていない。「裸」のまま教室に投げ出されては、マンガ家になるというバクチに「勝利」することを、今日も夢みているのだ。

中島一夫