マイ・インターン(ナンシー・マイヤーズ)

 ハンドルを握るロバート・デ・ニーロが、バックミラー越しに後部座席のアン・ハサウェイを見つめる。『タクシー・ドライバー』へのオマージュだと感じさせる、ほぼそのことだけが印象に残った。

 『タクシ・ドライバー』の「トラヴィス」(デ・ニーロ)は、大統領候補の政治事務所のガラスの向こうにいる、ベッツィーとの「つながり」を欲望していた。彼にとって、性と政治は別物ではない。ともに「つながり」だからだ。ベッツイーと性的につながることは、大統領(候補)と政治的につながることだ。

 トラヴィスにとって耐えられなかったのは、ベトナムから帰ってみると、かつては自分がクズだと思っていた連中が、60年代の公民権運動によって、すっかり地位が向上してしまっていたことだった。それは、ベトナム帰りでありながら、彼らよりも大統領から遠い存在となることを意味する。黒人、インディアン、女性……。娼婦のアイリスにすら、「ウーマンリブって知ってる?」とからかわれ、彼は、ひとり時代に取り残されたような孤独感を抱く。

 本作のデ・ニーロが、70歳のシニアインターンとして再就職したファッションサイト会社の社長が、女性(夫はイクメン専業主夫)であることは、デ・ニーロが、あのときの「延長線上」にいることを感じさせたかったのだろうか(むろん、今や女性の社長など珍しくもないが、作品後半で男性の!CEOを迎える否かが、彼女(とデ・ニーロ)の大きな決断となるのだ)。彼は、あのとき以来、ずっと「インターン」として、こうした時代の趨勢を学んできたかのようだ。

 彼がお抱えドライバーとして、ミラー越しに社長のアン・ハサウェイを見つめる姿も、『タクシー・ドライバー』のラスト、例の行為によって「英雄」にまつり上げられた彼のタクシーに、ついにベッツィーが乗り込んできて、やはりミラー越しに彼女を見つめる姿と、時を隔ててつながっている。

 当初ハサウェイは、デ・ニーロの年季の入った?鋭すぎるその目線を嫌ってか、「彼は目ざと過ぎる」という、理由ともつかぬ理由で異動を命じるのだが、やがて彼は、この「女性社長」から全幅の信頼を受けるに至る。

 それは、彼女が会社を設立したこの場所こそ、その昔デ・ニーロが、40年の長きにわたって勤めあげた、電話帳会社のあった場所だったからだ。彼は、この場所とこの界隈を隅から隅まで知り尽くしており、その分厚い電話帳のような経験知が、この迷い多き社長を、しかるべきアドレスへと導くことになる。

 電話帳がネットのサイトにとって代わられるのは、あまりにも分かりやす過ぎる交代劇だとも思うが、それにしてもラスト、太極拳で心身のバランスを身につけようとハサウェイをいざなうデ・ニーロは、あの頃と比べると、何と「うまく」呼吸をしていることだろう。これこそが、全編コミュ力をテーマとする本作が示した、究極のコミュニケーションのあり方と言えようか。

 性と政治から太極拳へ。「つながり=コミュニケーション」の変容をインターンとして学んだ男は、「目ざと過ぎる」視線を時代と調和させることで、異動を免れたのだ。

中島一夫