アトミックサンシャインーー河馬と人間(太陽肛門スパパーン)

ついに出た太陽肛門スパパーンのニューアルバムに、コメントを寄せました。
http://taiyoukoumonn.web.fc2.com/saishin.html

以下、同文掲載です。


 ほぼ同年齢で同時期に同じ大学にいた花咲政之輔は、私にとって、あり得たかもしれないもう一つの生だ(と勝手に思っている)。私もまた、例えば高校生のときに駅で戦旗派の署名をするような機会があったら、まったく違った人生になっていたかもしれない。

 もちろん、それは同時に、今となってはとりかえることができないという強いオブセッションをともなって、こちらの存在に食いこんでくる。その存在は、ともすると流されては硬直化しそうになるこちらの思考に、根本的な変更を迫ってくる他者だ。

 他者は不快だ。アルバム冒頭から聴こえてくる災害警報のように。徐々に音楽になじみかけ、いよいよ快を感じてきた矢先に、それは再び冷水を浴びせにやってくる。また、メロディーに行儀よく乗っかることがない、「奴隷の韻律」(小野十三郎)を頑なに拒むかのような歪で不格好な詞は、安易にリズムや音感に共鳴し口ずさむことを許さない。

 さらに歌詞カードをめくれば、今度は「寄進者芳名」とあって、カンパの額によるのだろうか、氏名の文字フォントの大きさが露骨に差別され、まるでアルバムへの貢献度が壁に貼りだされているような感覚を覚える。下位の方に名前があろうものなら、己の名を虫眼鏡で見つけ出さねばならないという、ちょっとしたハラスメントを受けることとなる。

 だが、そこには、同一労働=同一賃金ならぬ、同一カンパ=同一フォントの鉄則が貫徹されているのかもしれない。差別するなら、属性ではなく、鉄則にしたがって差別せよ、というPC批判。

 「ネットは見たくなかったら消せるわけだけど、ビラ撒きは消せないし、意味ないという人は嫌だと思ってもいるわけだから、それは重要なんじゃないですか。「強制力」がポイントですよ。相手に嫌な思いをさせる」と花咲は言う(「子午線」Vol.3インタビュー)。

 この言葉は、かつて批評家のすが秀実(本アルバムでも「very special thanks to」と最大限の感謝が捧げられている)が、同じく批評家の柄谷行人に、「人の嫌がることをする人」「いいことをしても、人の嫌がる形でしかしない人」と評されていたことを思い出させる。そういえば、あれもまたPC批判の文脈だった。

 批評が困難な現在、まだ批評があり得るとしたら、まずもってこのPCに包摂された「御花畑」に、いかに「強制力」で不快をもたらすかにかかっていよう。そして今は、この快は「自然生長性」のこと、不快は「目的意識性」のことだと強弁しておきたい。

 いつか、潜在する無数の花咲が、ビラも撒けない「御花畑」に、嫌な思いをさせてやろうとビラを撒きにやってくる。この作品は、そんな光景をありありと思い浮かばせる。

中島一夫