私の少女(チョン・ジュリ)

 イ・チャンドンが、企画段階からほれ込んでプロデューサーを買って出ただけあって、繊細できめ細かい作品だ。だが、今作は、作中の少女ドヒ(キム・セロン)や女性警官ヨンナム(ペ・ドゥナ)がそうであったように、心無い誤解にまみれている。

 ヨンナムとドヒが同性愛かどうかが曖昧だとか、その結果同性愛否定映画になってしまっているとか、だから脚本が駄目だとか。映画関係者からそのような声が聞かれるのにはあ然とする。まるで、同性愛者は同性の子供を性的にしか見られず、お互いに慈しみ愛することなどあり得ないとでも言うのだろうか。差別的な、と言っていいほどにひどい誤読だ。ヨンナムとドヒは、まさにそうした視線に苦しめられ、翻弄されたのではなかったか。

 女性監督の新鋭、チョン・ジュリは、今作の発想のベースに、昔聞いた寓話があったという。

主人と一匹の猫が仲良く暮らしていました。ところがそこへ新しい猫がやってきて、もとの猫は主人から疎外されてしまいます。ある日、主人は玄関で靴を履こうとして大変に驚きました。なぜなら靴の中に死んだネズミが入れられていたからです。主人は最初からいた猫が嫉妬したんだろうと思い、その猫をさんざん殴りました。しかし次の日も靴の中に死んだネズミが入っていて、今度は皮が剥がされた悲惨な姿になっていました。

 その話を聞いて、監督は、「おそらくその猫は主人の愛を取り戻そうとして、ついそんなことをしてしまったんじゃないか」、「ネズミを食べやすいように親切心で皮を剥いだ」のだと思ったという。

 ドヒがこの猫に当たることは言うまでもない。重要なのは、ドヒ=猫は、主人にさんざん殴られたから寂しさを感じていたのではないということだ。その逆に、寂しいという疎外感から、わざと殴られるようなことをしてしまう、自らを殴られるように仕向けてしまうということなのである。ヨンナムが、ドヒを、「暴力に慣れてしまって危険な状態にある」というのは、そういう意味だ。

 ドヒにとっては、すべては母に捨てられたことに端を発している。その後彼女は、義父のヨンハに引き取られ、ヨンハとその母に日常的に暴力を受けているという設定だ。だが本当にそうなのか。作品は、そうした設定の信憑性を、自らぼかしているように思える。

 例えば、ヨンナムに「どのくらい殴られるの?」と聞かれたドヒは、「酔っている時以外は殴らない」とヨンハをかばうようなことを言う。また、ヨンナムにドヒを殴っていることをとがめられたヨンハは、「あんたは知らないだろうが、こいつが暴れ出すと手がつけられないんだ」と告げる。実際、そのでまかせのような言葉を裏付けるように、ある時ドヒは、ヨンナムの目の前で、自ら壁に頭を打ち付けては、「悪いことをしたんだから殴られないといけない」と、狂気的なまでに自己処罰的で自傷的な振る舞いに出たりするのだ。

 ヨンナムは、ドヒの体の傷が、表面的にそう見えるような、単なる虐待によるものではなく、ドヒという少女の、もっと見えない内側からくるものだということに徐々に気づいていくのである。

 この表面/内面は、ヨンナム自身の問題でもあった。彼女は、この地方の漁村の警察署長として、ソウルから赴任してきたが、内に秘密を抱えていた。それを示すように、彼女が頻繁に口にする、水のペットボトルの内側=中身は、酒に入れ替えられたものだった。それが、あからさまに酒を楽しむ=内と外との一致を享受し得る、共同体の人間と対比されているのは、言うまでもない。彼女が、表面的には酔っていないように見えるのは、したがって不自然どころか作品として必然的だと言ってよい。

 ドヒがペットボトルの中身を知ってしまうことは、だからその後ヨンナムの秘密を知っていくことへとつながっていく。その内なる秘密は、決して外=公には示されないし、示されたところで理解は得られないものだ。だからこそ、それは寂しさとなり、ドヒの内なる寂しさと響きあうことになるのである。

 人まねが得意なドヒは、ヨンナムの外見を真似る。警察の帽子をかぶって見せては、髪形をそっくりにする。やがては、風呂で酒を飲むことさえも。ドヒには、まだ外側しかない。だから、自らを傷つけてまでも、外見に殴られた跡=傷を残そうとしてしまうし、ヨンナムの外見を真似さえすれば、中身にも彼女のような強さが備わると思ったに違いない。

 心無い視線は、またしてもその同化を同性愛と決めつけるだろう。だが述べてきたように、表面=外を見てそのように決めつける力に、彼女たちは苦しんできたのだ。その力は、ヨンナムを拘留し、彼女たちをばらばらに引き裂こうとするだろう。そして、ついにはドヒを、その力との、生存を賭けた闘いへと駆り立てていく。

 かつてヘーゲルは、「女は共同体のイロニー」と言った。漁村の存続のためには、不法滞在者の労働力からの搾取すら黙認しかねないこの「男の共同体」では、彼女たちは、若い男性警官がふと漏らすように、その内面がよく分からない「怪物」と見なされてしまうのだ。

 ここでは、酒を飲み酔っぱらい、内面=秘密をさらけ出しあわないような者は「怪物」と認定されるほかはない。「怪物」とは、作品のタイトルにあるように、「私」の内側に「少女」が潜んでいる者であり、またイロニーの別名にほかならない。

中島一夫