革命の狂気を生き延びる道を教えよ その3

 大江健三郎の狂気が生き延びる道、それは天皇制―民主主義のインフラたる一夫一婦制に回収されまいとするところに賭けられている――。

 

 そのように考えれば、大西巨人による、あの激烈な『われらの時代』批判も、また違った角度から見えてこよう(「大江健三郎先生作『われらの時代』の問題」一九五九年十一月「新日本文学」)。

 

 大西は、『われらの時代』における性的な記述や描写をおびただしく列挙した後、「ここにあるのは、そのほとんどすべてが知ったかぶりであり、あるいは嘘であり、比喩・修辞として徹頭徹尾観念的に上っ調子の下作であ」るという。そして、そのような『われらの時代』の嘘、観念的、類型的な記述を「新感覚派」と一蹴した。

 

J・ジョイスが『ユリシーズ』の中で一人の男の顎鬚を陰毛に比(たぐ)えるかして、かつてそういう事柄が、「新感覚派文学」に一定の、主として皮相な刺戟を与えた。それは、その派の隊長横光利一において、「新感覚派」時代以後の『紋章』あたりにも尾を引いた。そこで、たとえば自動車のモーターの起動を男根の勃起に擬えて妄想する作中人物が、横光によって作り出された。なにも性的な比喩の採用においてだけではなく、その文体または修辞一般において、この大江先生は、「新感覚派」の、なかんずくその不毛浅薄な側面の糟粕を無遠慮に嘗めている。(大西巨人「「大江健三郎先生作『われらの時代』の問題」)

 

 要は、大西は大江を、新感覚派=転向イデオロギーの末裔とみなしたわけである。それは、「民学同」八木沢の描き方についてもいえる。八木沢は「到底語の真実の意味におけるコミュニストではあり得ない」、「それは、この先生の知ったかぶりの嘘と、そこから来る必ずしも意識的ならざるデマゴギーを物語る」と。だから八木沢=政治的人間と対照的に描かれる「性的人間」の靖男も、たかだか「心情のアナーキスト」にすぎず、それを意味ありげに描く大江は「心情のファシスト」である、と。当時の状況や両者の置かれたポジションから考えれば、大西の批判は正しいが、今回、すがの大江論を通して考えると、性的な位相の問題が違った側面から見えてくる。

 

 大西は、『われらの時代』批判を書いた翌月の時評(一九五九年十二月「新日本文学」)で、こう記している。

 

『われらの時代』批評の中で、私は、「この作中で男根が隆隆と奮い立つのは、ただ鶏姦という破廉恥な機会においてだけである。」、〔…〕これを端的に要約すれば、私は、同性愛を反自然的・反倫理的な行為と断定したのである。だが、一般に、同性愛にたいする非難を「偏見」、「因襲的なモラル」、「野蛮な無知な迷信の産物」として排斥する主張が、近代的な精神分析学者や社会批評家やによって、しばしば繰り返されてきている。そこで一定の見識を持つ読者が、私の批評に「偏見」、「因襲的なモラル」、「野蛮な無知な迷信」の類を見出したような気になり、私の上に精神の異常を推定してみる、というような事態も、発生し得るのであろう。(「同性愛および「批評文学」の問題」)

 

 大西は『われらの時代』は同性愛的な性愛を描いているから駄目だと批判していると、したがってそれが同性愛差別と受け取られたというわけである。もちろん、これは大西としては不本意だった。まずもって、大西は、『われらの時代』の性的な記述の「嘘」を批判したかったのである。だが、以前にも書いたように、大西にとって重要なのは「現実上の嘘と真実」と「小説上の嘘と真実」との明確な位相の区別なのであり(以下を参照)、

 

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 『われらの時代』に対しても、あくまで問題は、「具体的作品批評」の位相にあった。

 

もしもいま私が、同性愛は必ずしも全的には反自然的・反倫理的でないと仮定したにしても、『われらの時代』批評の中で私が同性愛を反自然的・反倫理的と断定したことは、具体的作品批評として全面的に正しいのである。前にも私が書いたように、『われらの時代』という仮構された小世界の内部においては、本来完全に自然的・倫理的であり得るべき異性間の性交が、すべて現実の否定的暗黒面に属し、仮定の上でも完全には自然的・倫理的であり得べからざる同性間のそれが、すべて現実の言わば肯定的光明面に属する。その仮構小世界の内部においては、同性愛と異性愛との同権よりも、むしろ前者の尊重と後者の貶下とが、客観的に支持されている。そこに、同性愛は自然的・倫理的であり、それに反して異性愛は反自然的・反倫理的である、という道徳的・社会的価値判断が提出されていると見られる。しかもその提出は、既存価値の転換・新しい価値の建設の試みとしてではなく、全然無理由に、無目的に、放埓に、怠慢に行なわれているにすぎない。現実世界と仮構小世界との間のこういう無理由的・無目的的な断絶および価値逆転、後者(仮構小世界)に存在する同性愛偏重および異性愛排斥、そこに顕現する反現実的、逆比例的な均衡喪失は、作品すなわち仮構小世界にたいする具体的批評としての「同性愛は反自然的・反倫理的である」という判断を――同性愛は必ずしも全的には反自然的・反倫理的でない、という(仮定の)前提の存在もかかわらず、――決定的に正当化するのである。

 

 すなわち、大西にとって、『われらの時代』の問題は以下の二点に集約される。

  • 作品=仮構小世界の内部において、「同性愛=自然的、倫理的」、「異性愛=反自然的、反倫理的」という道徳的、社会的価値判断が提出されている。
  • だが、上の価値判断が、現実世界に対する価値逆転であるにもかかわらず、それが無理由に、無目的に、放埓に、怠慢に行われている。

 

 したがって、大西が『われらの時代』という個別の作品に対する批評において、「同性愛は反自然的、反倫理的である」と批判したのは、何もPCの問題ではない。「『われらの時代』に同性愛が書かれていることそれ自体を非難するのではなく、かえってそれが至極不正当、不十分にしか」書かれていないから批判したのだ、と。「現実上の嘘と真実」というレベルでは、大西自身は、「同性愛は必ずしも全的には反自然的、反倫理的でない」と考えているというのである。

 

 これは、一見詭弁に見えるが、フィクション=仮構小世界の条件を不断に問い続ける大西においては一貫している。大西においては、常に「語り手=ファクト・テラー」と「作者=フィクション・メーカー」とは本質的に区別されねばならないのだ。→

 

 だが、今考えたいのは別のことだ。果たして、『われらの時代』の同性愛の提出は、大西の言うように、「既存価値の転換、新しい価値の建設の試みとしてではなく、全然無理由に、無目的に、放埓に、怠慢に」行われたものだったのだろうか。

 

 大西の大江批判の核心を、もう一度見てみよう。

 例えば、『われらの時代』の「上質のフラノのズボンを、ジミーは、血の匂いと叫喚のたちこめる朝鮮で軍服のズボンをずりおとしていどみかかってきたときのように荒あらしく脱いだのだ。そしてかれら(高とジミーと)の二つの男根は、怪物的な選ばれた男根として盤石の重みに耐え、……」という箇所について、大西はこう述べる。

 

こうして、この小説に登場する男根は、見当違いの、反自然的・反倫理的な対象にむかってのみ、その情熱を不健康にも発動する。男根のエネルギーの放出方向は、大江先生の手によって、本来の、正当な対象すなわち女陰から異例の、不正当な対象すなわち同性の直腸へと一気に逸らされる。ちょうど『人間の羊』において、アメリカ兵の暴力にこそ向かうべき一日本人学生の憤怒と憎悪とが、「進歩的教員」の戯画のつもりらしい一日本人同胞へと逸らされているように。またちょうど『不意の啞』において、アメリカ占領軍にたいしてこそ最大に集注されるべき日本村民の憤怒と憎悪とが、虎の威を借る下っ端の一日本人通訳へと逸らされているように。(「大江健三郎先生作『われらの時代』の問題」)

 

 読まれるとおり、大西の「同性愛は反自然的、反倫理的」という大江批判は、具体的には作中人物らの「男根のエネルギーの放出方向」が「本来の、正当な対象すなわち女陰から異例の、不正当な対象すなわち同性の直腸へと一気に逸らされる」ことに対する異議申し立てなのだ。大西にとって、男根が同性の直腸へと向かうことは、「見当違いの反自然的、反倫理的な対象にむかって」いることであり、あくまで女陰こそが「正当な対象」でなければならない。だからこそ、同性愛は「全然無理由に、無目的に」描かれてはならないことになる。

 

 これが何を意味するのかは、大江批判のみならず「新日本文学」誌上の時評全体を見渡してみるとよくわかる。別の回の時評では、例えば次のように論じられている。

 

もし男子は「一穴主義」を、婦人は「一根主義」を、相互の精神的ならびに肉体的満足において実行することができたなら、天下は太平であろう。先に私は、男女同権の正常な樹立の前途はなお遼遠、と言ったが、同時にそれは、「一穴一根主義」すなわち一夫一婦制の正当な確立の道は遥けし、ということである。われわれは、もうかなり長い時期に亙って一夫一婦制の基本の上に生きている。〔…〕この未完成の一夫一婦制、その正当な確立の要請(postulate)を前提として、初めて有婦の男子、有夫の婦人の第三者との異性関係は、倫理的否定語「姦通」をもって呼ばれ得るのであり、また呼ばれねばならぬのである。(「批評家諸先生の隠微な劣等感」一九五九年)

 

 要は、大西においては、「一夫一婦制=一穴一根主義」こそが自然的、倫理的なのである。したがって、それを「一夫一婦制を基調とする凡俗な家庭道徳」(平野謙)や「ブルジョア道徳」呼ばわりすることを、ことのほか嫌った。そうした連中の「性的放埓」や「畜生なみの性的「自由」」こそ「ブルジョア道徳」にすぎない。それは、資本主義的な「放埓」や「自由」を享楽しているだけだからである。

 

 こうしてみてくれば、大西の「同性愛は反自然的、反倫理的である」という大江批判の出所が、この「男女同権の正常な樹立」の前提たる一夫一婦制=一穴一根主義の「正当な確立の道は遥けし」であることは明らかだろう。未完成の一夫一婦制は永久革命なのであり、したがってこれに反する『われらの時代』は反革命でなければならない。言い換えれば、すなわち大西は、『われらの時代』の同性愛の提出を、いわゆる「俗情との結託」として批判したわけだ。そもそも、大西を一躍有名にした「俗情との結託」(一九五二年)は、一夫一婦制に関わる議論であった。

 

(続く)