中村光夫をめぐる誤解

 中村光夫が小説家に読まれなくなった理由については、かつて次のようなやり取りがあった。

 蓮實重彦 これは必ずしも私小説論には限りませんが、小説理論をおまとめになった『日本の近代小説』とか、『日本の現代小説』とか『小説入門』のなかで「肉声を響かせなければいけない」ということをいつも言っておられますね。その「肉声を響かせなければいけない」ということと、当時理解されていた私小説という言葉に対する先生の姿勢とは、矛盾するはずのものなわけですね。
 中村光夫 そうですね。
 蓮實 その矛盾を衝いた人は、いないんじゃないでしょうか。
 中村 いないですね、幸いにして……(笑)。
 蓮實 もちろん「肉声を響かせる」というばあいの肉声が、言葉を通していかに小説という虚構のなかに響き得るかというのが、先生の主題であるわけですね。
 中村 まあ、そうですね。
 蓮實 それがどうしてこれほどの誤解ができてしまったのか。それはたぶん、先生が同時代の文学者たちの、神経過敏な点に触れてしまった。その結果、先生の書かれた言葉を彼らがまったく読まなくなった。
 中村 ええ。
 蓮實 先生としては「私」の肉声を響かせる小説を、同時代の作家のなかにぜひ読んでみたいと思っておられただけでしょう……。
 中村 ええ、そういうことなんです。
蓮實重彦『饗宴Ⅱ』、「小説の理論と実作」1980年)

 あれだけ私小説を批判しながら、もう一方で「「私」の肉声を響かせる小説」を要求すること。

 一見、それは「矛盾」に見える。だが、蓮實重彦も言うように、そうではない。ここで言われる「肉声」とは、例えば津村喬だったら「パロール」の復権とか、「ぼくはぼくの言葉で語りたい」というところだろう。今回、私はそれを「復讐」という言葉で論じた(「復讐の文学――プロレタリア文学者、中村光夫」『子午線』vol4)。

 言葉でもって事実や現実を「告白=表象」できると思いこんでいるところに、「私」の「肉声」は響かない。そこには言葉の抽象性の認識が不在だからだ。商品(交換)には、具体的有用労働と抽象的人間労働との二重性(マルクス)が分裂的に共存するように、言語化された「私」は、「肉声=具体的な私」と「私小説=抽象化された私」との二重性を宿命的にはらんでいる。

 このことを中村は、「僕等が一匹の犬を見て「犬」という場合、その一語はたんに対象の犬だけでなく、それにたいする僕等の愛情、嫌悪、または恐怖を表現してい」るという、ある意味で驚くべき言葉で述べている(「言葉と文章」)。この場合、「僕等の愛情、嫌悪、恐怖」が「肉声=具体的な私」に当たるだろう。そして、「肉声=具体的な私」は「私小説=抽象的な私」に対する、さらに言えばその二重性をもたらす「商品=言語」(化)そのものに対する、「復讐」という「行動」なくしてはあり得ないのである。

 中村の言う「社会化された私」とは、この「肉声」のことなのだ。だが、中村の「社会化された私」は、小林秀雄の「(市民)社会化した私」という平板化した言葉と混同されてしまった(両者は真逆だとすら言える、ということも拙稿で論じた)。「その結果」、批評家もまた中村の言葉を「まったく読まなくなっ」てしまったのではなかったか。

中島一夫