大西巨人と中村光夫の論争 その4

 中村は、自らの短編集『虚実』(一九七〇年)の「あとがき」に次のように書いた。

 

事物を言葉で表現するのは、何らかの形で嘘をつくのを強いられることだが、嘘が嘘としての機能を果たすためには、本当に見えなければならない、という当り前のことが、いくぶん実地に即して呑みこめました。総題を『虚実』とつけたのは、そういう気持からです。そこにあることは全部嘘と言えば嘘ですが、だからまた本当かも知れないのです。

 

 それに対して大西は、アプトン・シンクレアーの「作者の叙」を引きながら、次のように批判する。

 

「この小説作品(work of fiction)の中には、F・D・ローズヴェルトの登場する場面が、幾つかある。作者は、かつて作者がカリフォルニア州知事に立候補した際、ローズヴェルト大統領と二時間余の愉快な会談をしたことがあったが、そののち彼と個人的接触がまったくなかったので、彼の行動態度の由って来たる所に関する直接的知識を少しも持っていない。この書物の中の諸場面は仮構(fictional)であり、それらについて作者は、大統領にも同夫人にも、なんら相談しなかった。大統領の外貌、個人的習癖および環境にたいする作中描写は正確である、と作者は保証することができる。しかし、大統領の発言した物として記述せられた言葉は、彼の精神について作者が行なった推定を表しているに過ぎない。(“PRESIDENTIAL AGENT”,’Author’s Note’)」

 

もしもアプトン・シンクレアーのこの「作者の叙」が「虚実をうまくとりまぜる」とか「仮構と経験をどこでつなぐか」(『虚実』の「あとがき」)とかいうことに直結せる意味において書き添えられたのであったならば、それは、啻に滑稽または無意味な事態であったろうのみならず、まさに彼の作家としての鼎の軽重が問われてしかるべき仕業でもあったろう。もちろん実際上シンクレアーは、――たとえば『赤と黒』の巻末付言におけるスタンダールと同様に、――一定の社会的・政治的な配慮(そこでは特に「モデル問題」にたいする配意など)のゆえに、前期「作者の叙」を書き入れたのであった。(「作者の責任および文学上の真と嘘」一九七三年)

 

 

 

 大西にとっては、中村のように「虚実とりまぜる」とか「全部嘘と言えば嘘ですが、だからまた本当かも知れないのです」という言い方は、物事を観念的にしか追究していない「作家」のあいまいなレトリックにしか見えなかった。対するアプトン・シンクレアーは、まさに「公人」として「モデル問題」にも配慮しながら、自作が「仮構の真実」の創造だということを主張したのである、と。

 

 大西には、中村の「虚実ないまぜ」というスタンス自体が許せなかった。繰り返せば、大西によれば、「文学上の真と嘘」と「現実上の真と嘘」の位相は明確に区別されねばならず、そのためには作家の「公人」としての自覚を要する。「公人」の自覚のない者が「仮構」を行えば、両者の位相が(また「語り手」と「作者」が)「混同・同一視」され、ひいては虚と実が「ないまぜ」になってしまう。そのようになってしまったのが、いわゆる「私小説」ではなかったか。ならば、「私小説」をあれほど批判してきた中村は、自身が「私小説」に堕してしまってはいないか。

 

 だが問題は、「その3」で述べたように、大西の言う「公人」や「普遍性」がいまや揺らいでいることだった。であれば、大西が重視すべきだったのは、中村の『虚実』「あとがき」の引用でいえば、むしろ前半部だったのではないか。中村の主題は、むしろ「事物を言葉で表現するのは、何らかの形で嘘をつくのを強いられることだが、嘘が嘘としての機能を果たすためには、本当に見えなければならない」という部分にあったからだ。中村のいう「嘘」とは、端的に「言葉」は「嘘」だということであり、言葉の表象=代行(リプレゼンテーション)の不可能性にほかならない。中村にとっては、言語が媒介する以上、事物をそのまま写実することなど不可能であり、言語そのものがつねにすでに仮構性をはらんでいる。あくまで中村から見れば、ではあるが、大西にはこの言語の位相への視点が欠けていたのである。

 

 大西にとっては、それが「文学上」であろうが「現実上」であろうが、「真と嘘」は「作家」の意識や自覚に左右されるものである。言い換えれば、「真と嘘」は書き手がコントロールできる(またしなければならない)次元に存するのだ。たとえ現実的にあり得そうもないこと(大西が例に挙げるのは、「たとえば一人の男がある朝ベッドの上で一匹の毒虫に変身して目覚めること」や「白髪三千丈/愁ニ縁ッテ個ノ似ク長シということ」などである。「『写実と創造』をめぐって」一九七〇年)が書かれてあっても、それが「公人」の自覚によって「仮構の真実」の創造としてなされているのなら、文学上の「真」であり得るのである。一見私的(特殊性)でしかない言説が、だが「公人=普遍性」においても「真」である、そうした「確証と確信」があって初めて「公表」に踏み切るのが、「言論・表現公表者の責任」というものだ――。

 

 だが、そのことは、例えば「小説はあらかじめ予定された客観的真実を表現するものではなく、作家の自由な想像力の所産としてそれ自身が真実に達しなければならないのです。ある事実を言葉によって現わすことは、これを必然に不完全にしか再現しませんが、小説の真実性は完全でなければなりません。小説の仮構性はそこから出てくるので、フィクションとは勝手な筋をつくりあげるのでなく、完全な真実を表現のうちに所有するための手段なのです」(「ふたたび政治小説を」一九五九年)という中村にとっても同じだった(同様な主張は中村の至る所に見られる)。「小説の真実性は完全でなければなりません」は、大西のいう「独立小宇宙の完結」にほかなるまい。実際、中村と大西の「小説」観に大きな隔たりがあるとは思えない。「論争」というものの常だが、むしろ類似した立場が「対立」となる(ちょっとの違い、それが困る)。

 

 ここでも、中村にとって重要なのは、むしろ前半部「ある事実を言葉によって現わすことは、これを必然に不完全にしか再現しません」という部分だった。中村にとっては、言葉というものが、真実を追求すればするほど遠ざかるものであり、「その限りにおいて」、真実はあると逆説的にしか捉え得ないものだったのである。

 

小説の仮構性が、その真実性を阻害しないのは、言語による現実の表現には、真実を追求すればするほど真実をはなれざるを得ないという性格があるからです。(「仮構と告白」一九六七年)

 

 真実=故郷はあらかじめ「喪失」されている――。中村には、自らがどうしようもなく「故郷喪失者」であるという「自覚」があった(その意味で、「故郷を失った文学」の人の影響下にあった)。というか、おそらくそれは「公人」の「自覚」と引き換えのものなのだ。「公人」が揺らぐことが、「故郷喪失者」の「自覚」を生じさせるのである。

 

 中村の「虚実ないまぜ」は、意図的にできるものではなかった。あらかじめ真実=故郷が喪失されている以上、いくら「公人」の「自覚」をもって「虚」と「実」とを「混同・同一視」するなと言われても、中村においては、「虚実」はアプリオリに「ないまぜ」なのである。中村にとって「仮構者」は、「自覚」の問題ではなく不可避的なものだった。逆にいえば、それが中村の「転向者」の「自覚」であっただろう。何度も述べてきたように、中村にとって「転向」は、マルクス主義ではなく言語の問題だった。

 

 一方大西は、自らが「転向者」と認めたことはなかった。だからこそ、大西の「転向」を問題にしたすが秀実大西巨人の「転向」」(二〇一八年)は、読む者を震撼させたのである。そこでは、大西作品に見られる「認知症」(「忘れました」!)への「恐怖」が、転向=変節=俗情へと堕することへの「恐怖」として捉え返されている。そういえば、「その3」で述べた『迷宮』における「言論・表現公表者の責任」も、「認知症安楽死」問題に即して提示されていた。述べてきた文脈で言えば、それは「公人」であることを喪失する「恐怖」であり、また「認知症」によって「言論・表現」が「虚実ないまぜ」に陥ってしまうことへの「恐怖」と背中合わせだったということだろう。

 

 中村は、それまで単に師弟関係と捉えられてきた、万象の「真実」(真物)を「模写」すべしという坪内逍遥と、あくまで「模写と言えることは実相を仮りて虚相を写し出すということなり」と言った二葉亭四迷との間に、確信をもって明確に線を引いた批評家だったといえる。中村の『二葉亭四迷伝』が、(大西の「公人」が揺らぎはじめた)スターリン批判の一年後から連載が始まっていることは、もう少し注目されていいのではないか。中村においては、スターリン批判以降の状況は、かつて自らが中野重治ら「転向作家」との論争の渦中にあった、一九三〇年代の反復に見えただろう。

 

 二葉亭においては、最初から「虚(相)」と「実(相)」は「ないまぜ」だった。だからこそ、自らリードした言文一致による模写=リアリズムに対しても、一貫して「懐疑派」(「私は懐疑派だ」)だったのだ。中村はそこに、自らと重なる「転向者=懐疑派」の「自覚」を見たのではなかったか。中村もまた、「近代=言文一致」に対する「疑惑」を抱き続けた作家であり批評家だった。二葉亭にとって言文一致への「懐疑」は、そのまま師である逍遥への「懐疑」だったように、中村にとって「『近代』への疑惑」(一九四二年)は、そのまま「近代の超克」会議の中心人物であった師・小林秀雄への「疑惑」だったに違いない。

 

中島一夫