曖昧な言葉

 先日(3月1日)の記事に対して、大杉重男氏から再反論があったようだ。

 一言で言えば、私の文章は「曖昧」だという主張だが、特にそれに応えることはない。書き手の不注意も読み手の誤読もありふれたことだ。ただ、私は、大杉氏を「国語の問題として」間違っていると言うような読者とはみなしていなかったというだけである。今後は、自らの戒めとして気をつけたい。

 それにしても、大杉氏の文章を読んで、改めて体質の違いを認識するばかりだ。例えば、私なら、他人を批判するときに、次のようには言わないだろう。

以前私は、東浩紀の弟分の批評家が、小林秀雄の「私小説論」さえ読んでいれば自然主義文学を読む必要はないと酒場で偉そうに豪語するのを聞いて呆れたことがあったが、同じものを中島氏にも感じる。

 別に酒場で啖呵を切ってもいいではないかと思うし、それに異を唱えたいなら、その場で議論でもして終えればいいとも思うが、それを措いても、なぜ「東浩紀の弟分」などと書くのか。端的に、書くなら名前を書けばいい。

 ある人間を、有名人の権威の元にある「弟分」と見なしたうえで、当人の固有名は出さないこと。私の読み違えでなければ、大杉氏の『アンチ漱石』という本は、そのような構造やメンタリティそのものを批判していたのではなかったか。

 私は、「「自然成長性」をみくび」ってなどいない。それどころか、人間がその固有性を剥奪され、有名で権威ある誰かの「弟分」と見なされてしまうようなところにも「自然成長性」は蔓延っていると考えているし、だからこそ不断にこれを批判し続けなければならないと考えている。

 いずれにしても、その批評家と「同じもの」だと「感じる」と言われても、応えようもない。私には、それこそ曖昧な言葉だ。

中島一夫