綾目広治『小林秀雄 思想史のなかの批評』

 

小林秀雄 思想史のなかの批評

小林秀雄 思想史のなかの批評

  • 作者:綾目広治
  • 発売日: 2021/02/20
  • メディア: 単行本
 

  上記書評が、「週刊読書人」4月23日号に掲載されています。

 

 すでにweb版で全文が公開されています。 

https://dokushojin.com/review.html?id=8125

 

 

いつの時代にも、その時代の思想界を宰領し、思想界から多かれ少かれ偶像視されている言葉がある様です。仏という言葉だった事もあるし、神という言葉だった事もある。徳川時代では天という言葉がそうだったし、フランスの十八世紀では理性という言葉がそうだった、という風なものでありますが、現代にそういう言葉を求めると、それは歴史という言葉だろうと思われます。(「歴史と文学」1941年)

 

 今回、書評のために、久しぶりにいくつか小林を読み直してみたが、正直辟易してしまった。

 

 例えば、小林は上のように語って、様々なる「言葉」が「その時代の思想界を宰領し」「偶像視されて」きたと言うものの、誰よりもその超越的に機能する「意匠」にパラサイトしながら何事かを語ってきたのは、当の小林自身ではなかったか。

 

 正宗白鳥との「思想と実生活」では超越的な「思想」の側につき、「私小説論」では「政治と文学」における超越的な「政治」にすり寄り、「歴史と文学」では「歴史」。もちろん、当時すでにマルクス主義は弾圧され、唯物史観は機能失調していたので、ここでいう「歴史」とは、唯物史観を否定した、例の「子供に死なれた母親」が「子供の死という歴史事実に対し」て抱く「愛惜の念」というやつだ。だから「歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている」と。

 

 この時小林は、「政治と文学」から「歴史と文学」へと重心を移動させた。だが、たとえマルクス主義唯物史観に見切りをつけ、そうではない「歴史」(=「決して二度と繰返しはしない」「無常ということ」)に身を移したところで、「政治」が流行れば「政治」、「歴史」が流行れば「歴史」と、「その時代の思想界を宰領し、思想界から多かれ少かれ偶像視されている言葉」に身を寄せていくスタンス自体には何ら変わりがない。

 

 本書の綾目広治も言うように、「小林秀雄は生涯においてマルクスから学ぶところはほとんど無かった」のではないか。小林に必要だったのは、「思想界を宰領し」「偶像視」される言葉たちであり、小林は次から次へと見境なくそれらに飛び移っていった。果たして、その移動を批評と見るべきか。

 

 蓮實重彦流に言えば、そのように超越性にしがみつく小林の言葉は、「悲劇」に逃げて「凡庸」を徹底できない、したがって「仮死の祭典」に耐えられない、要は批評の言葉ではないということになろう(拙稿「批評家とは誰か――蓮實重彦中村光夫」参照」。もういい加減に、小林を必要とする批評のパラダイムから脱却すべきではないか。この綾目の本の副題「思想史のなかの批評」も、まずもって小林の批評が、常に思想史を「宰領」した「言葉」に負けてきた、という意味に読まれるべきだろう。

 

中島一夫