アクトレス 女たちの舞台(オリヴィエ・アサイヤス)

 大女優が、自らの出世作となった舞台『マローヤの蛇』リメイクへの出演をオファーされる。かつて演じた若いインターン役ではなく、その相手役の中年社長の役だ。彼女にとって、それは若い頃の自分との対立、葛藤を強いられる、虚実入り乱れた残酷な舞台となる。

 もちろん、三人の女優――ジュリエット・ビノシュ、クリスティン・スチュアート、クロエ・グレース・モレッツのぶつかり合いは評判通り魅力的だ。だが、ずっとポスト68年5月を生きてきたこの監督のことだ(ギー・ドゥボールにいかれたシチュアシオニストの画家の末路を描いた、その名も『5月の後』という作品もある)、女優らの姿を通して、本当は別のものを見つめていたのではないか。

 はじめ、かつての立ち位置にいられないことを受け入れられなかった女優は、しかし最後、過去の自分と決別し、一切を捨て去ろうとする覚悟を決めたかのようだ。

 彼女を変えたのは、「消えゆく媒介者」クリスティン・スチュアートの存在だろう。彼女は、ジュリエット・ビノシュ演じる大女優の忠実なマネージャーだったが、舞台本番を前にして忽然と消えてしまう。

 彼女は、ずっと『マローヤの蛇』リメイクの稽古の相手を務めてきた。今度はビノシュが社長を演じるのだから、当然スチュアートはかつてビノシュが演じた主役の若いインターン役の側に回ることになる。過去に囚われ、なかなか中年の役を受け入れられないビノシュは、その苛立ちをスチュアートにぶつけまくる。

 「あなたは女優として完成されているのに、なぜそのうえ若さまで所有しようとする必要があるの」。だが、ビノシュは、分かってはいても受け入れられない。その二人のすれ違いがあからさまになるのが、二人でSF映画を見に行くシーンだろう。

 このシーンについて、監督はインタビューで述べている。「それは、彼女が古典的な養成を受けて女優になった人であって、言わば演劇や映画のヒューマニスト的な歴史に属しています。ですから、いくら現在の若い世代に自分を同一視しようとしてもそれは不可能なことです。(中略)スーパーヒーローのSF映画を、それを自分自身のストーリーとして見ることは絶対に出来ないのです。しかしヴァレンティン(=スチュアート)の方は、ああしたブロックバスターのサイエンスフィクションが好きだと嫌いだとかいう問題ではなくて、それを観て育ってきている。(中略)その違いはもはやどうしようもありません」。

 ある程度年齢を重ねた者なら、誰しも身に覚えのあるコメントだろう。ビノシュは、かつて自分が演じてきた役を演じる、勢いのある新進女優クロエ・グレース・モレッツが出演していたから、そのSF映画を嘲笑したのではない。だが、SFや女優としてのモレッツの魅力を真剣に説明しようとしていたスチュアートにすれば、間違いなく馬鹿にされ否定された笑いと受け取っただろう(「時々あなたが本当に嫌いになる!」)。この瞬間、二人の別れは決定的になった。どちらが悪いわけでもない。どうしようもなく、二人の知覚は断絶しているのだ。

 だが、この作品が感動的だとしたら、そのすれ違いを単なるすれ違いで終わらせなかったことだろう。ビノシュにSF映画のオファーが来る。監督直々、出演依頼にやってくるが、最初彼女はSFというだけで取りあわない。だが監督(若い世代に属する)が、ある一言を発した瞬間、ビノシュの中で何かが変わる。「あなたは今の時代や若い連中が嫌いではないですか? 僕も同じなのです」。

 この時、彼女には、それまで現実感に乏しく荒唐無稽としか見えなかったSF映画が、この現実とは異なる世界を描く革命的な可能性を帯びてくる。これこそが、かつてSFの魅力を語ったスチュアート=消えゆく媒介者が、ビノシュにもたらしたものにほかならない。

 それによってビノシュは、過去へのノスタルジー、若さへの嫉妬、年を重ねた自分を受け入れられない苛立ちを、すべて闘争心へと変えていくことになる。このときはじめて、若いインターンに対峙する「社長役」を、真に受け入れる覚悟を決めたのだ。

 ラストのビノシュの厳しい表情に、思わず前作の革命家『カルロス』http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20120928/p1 の相貌を思い出していた。

中島一夫