大学に押し寄せるネオリベの波

 週刊読書人(9月13日号)の1面座談会「大学に押し寄せるネオリベの波――早稲田大学「雇い止め問題」と日本映画大学「誓約書問題」に対して」は、大学の人間として見ないふりは済まされない。「波」が、すぐそこまで来ている切迫感に満ちている。四人の参加者の次のような発言が、非常に身につまされた。


大野英士氏「…以前、比較的大きな大学の教員採用面接を受けた時に、こんなことを聞かれたことがあります。「うちは非常勤を20年、30年務めている人がたくさんいるけれど、カリキュラム改変で、その人達をやめさせなければいけない時、あなたはどう対応しますか」。(中略)「大学教授=管理職」が求められる時代にはなってきている」。


鴻英良氏「私は演劇批評家で、外国の政治的な演劇を日本に持ってくることを考えている人がいれば、それに協力する形で、日本の現代演劇に政治的な色彩をもたらしたいと思っているわけです。演劇批評自体が政治的活動になっている。その時に、こうした誓約書に署名すると、批評活動ができなくなると思うんです。なぜ署名したのかを追及されたら、非常に厳しい。私にとっては、署名することは批評家としての生死に関わる問題です」。


すが秀実氏「…映画監督にしても作家・批評家にしても、昔は大学以外で生活の糧を得る場があるように見えた。ジャーナリズムの世界であったり、映画監督は映画を作るだけで生活できたかもしれない。それがどんどん縮小している。そうすると後に続く世代は、大学教員で食うしかないと思っちゃうんですね」。


高橋順一氏「…ここ十年くらい教員就任の形式が各学部単位から総長による直接的な辞令交付や就業心得の徹底などによって、物言わぬ教員の数が激増しています。教授会の議論もほとんど死滅しつつあります。こうした状況をなんとか打破していかねばならないのですが、理事会権力を恐れている教員は多いですね」。


 高橋氏に付け加えれば、「理事会権力を恐れている」のみならず、校務等で疲弊しきっている教員同士が、なるべく会議を早く切り上げたがっていることも、大きな要因としてあろう。そこには、議題に関係がなく議事進行を妨げるような異論を、「無駄なエネルギーを費やすのはやめよう」と互いに封じ込めようとする同調圧力が働いている。


 また、A氏(おそらくは明石健五氏だろう)による、座談会を総括する編集後記(「編集室から」)も極めて印象的だ。そこでは、ドイツの神学者マルティン・ニーメラーの詩が引かれている。

彼らが最初に共産主義者を攻撃した時、私は少し不安であったが、共産主義者ではなかったので声をあげなかった。続いて彼らが社会主義者を攻撃した時、私は、前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったので何もしなかった。そして彼らは学校、新聞、ユダヤ人等を攻撃していき、私は不安をさらに感じたが、行動することはできなかった。ついに彼らは教会を攻撃し始めた。私は牧師だったので行動に出たが、既に時遅しだった。

中島一夫