ヒミズ(園子温)

 「自分の撮った映画についての、いい批評も悪い批評も、両方受け入れない」、「常に自分の映画をステップアップさせることしか考えていない」(「週刊読書人」2011年11月11日号)と言い切るこの監督の作品に対して、「われわれは、いつまでラスコーリニコフとソーニャの物語を見続けるのか」とか、「被災地の映像を、こんなふうに使っていいのか」などと言ってもはじまらないのだろう。

 今回、とにかく驚いたのは、この監督の作品から「がんばれ!がんばれ!」というセリフが聞こえてきたその瞬間である。

 監督自身「希望に負けた」と言う。3・11後に、絶望を語っていても仕方がないのではないか、ヤケクソでも希望を語らねば…(次回作は、その名も『希望の国』!)。古谷実の原作にはない震災のシーンを、原作ファンからの批判覚悟であえて挿入したのもそのためだろう。紅白歌合戦の歌手から詩人や芸術家、アスリートに至るまで、3・11は、いやおうなくこの国の表現者を、希望や絆を表現=代表(represent)する者にした。

 もちろん、この監督のことだから、ストレートに希望を語るわけではない。「弱者ぶるな。弱者ぶって人に守ってもらおうとしたり、優しくしてもらおうと思うな。クセになるぞ」と被災者に毒づくようなセリフもある。

 むしろ、この作品が訴えているのは、日本人よ、「がんばれ」とか「世界にひとつだけの花」などというのはまだ早い、この主人公の中学生「住田」のように、堕ちるところまで堕ちてからだ、ということだろう。少年は、「クズ」の両親から生まれたからにはせめて「フツー」であろうと願うもののそれすらかなわず、自らの「オマケの生」の意味までも分からなくなる。のたうちまわり、泥に塗れる。「ヒミズ」とは「日不見」、すなわちモグラの一種だ。

 「堕落」は、「冷たい熱帯魚」や「恋の罪」など、ここ最近の作品に通底するテーマでもある。先のインタビューによれば、「恋の罪」の撮影中、明確に坂口安吾の「堕落論」が意識されていたという。

 だが、やはり今作が、どこかリアルを逸していると思われる理由は、その「ヒミズモグラ」というモチーフにある。ドゥルーズは、フーコーのいう規律社会を「モグラ」に、それ以降の管理社会を「ヘビ」にたとえた。流動性と変数に満ちた管理社会は、もはや巣穴(家族)から巣穴(学校、工場、軍隊など)への移動を強いられる「モグラ」にはたとえられない構造を備えているというのだ。

 「モグラ」という比喩は、ドストエフスキーの孤独な「地下室」へと通じるとともに、必然的に規律社会の「家」とオイディプスの問題を招き寄せてしまう。そこから、「父殺し」とその「罪と罰」までは一直線だ。

 たとえば、出口のないヘビ社会を見事に描いた、昨年のイタリア映画の傑作、マッテモ・ガッローネの『ゴモラ』を傍らにおいてみてはどうか。イタリア郊外の巨大団地が、しかしマフィアの巣窟と化しており、ドラッグ売買、闇金融、中国人のオートクチュール工場、産業廃棄物の不法処理場などと結びついていることによって、必然的にグローバル資本主義の構造とリンクしてしまっている現状を、しかも決してウェットで露悪的にではなく、きわめてクールに描き出していく。そこに生まれ落ちる少年たちは、選択の余地なくマフィアの一員となり、またそんな自らの宿命に思い悩む暇もなく、ヘビ社会を泳ぎながら成長していくほかないのだ。

 もはや、イタリアンマフィアも、「父」系によるモグラ社会的な『ゴッドファーザー』ではあり得ない。ヘビ社会に対応すべく変容を強いられているのだ。「父殺し」と自らの生の意味にこだわっている以上、いつまでたっても日本映画は「モグラ」から脱け出せないだろう。

 そういえば、昨年の日本映画にも、外国人の不法移民をシニカルかつコミカルに描いた深田晃司監督『歓待』(実にデリダ的なテーマだ)のような作品もあった。だが、3・11は、表現者たちを、グローバルな視点からナショナルなそれへと、再び逆戻りさせているように見えてならない。

中島一夫