果てなき路(モンテ・ヘルマン)

 自分が魅せられ虜になった女優を独り占めにした挙句、彼女に抱く「夢」を、カメラという合法的な「武器」で思いのままに実現させていく。映画監督とは、何とまあ身勝手でうらやましい職業なのだろうか。
 モンテ・ヘルマン、21年ぶりの新作は、その映画監督の性を隠しもせず大胆に映し出す。

 冒頭、映画監督の「ミッチェル・ヘイブン」(M・H=モンテ・ヘルマン?)は、「Road to Nowhere」とタイトルが書かれたDVDを、おもむろにPCに挿入する。画面の中には、ベッドの上で、一人の女性が、ドライヤー片手にマニキュアを乾かす姿が映し出される。監督は、「ヴェルマが物語の扉を開く」と静かにつぶやく。

 とにかく、この画面の中の「ヴェルダ」(シャニン・ソサモン)という女がすべてなのだとばかりに、カメラは彼女の肢体に引き寄せられるようにじわじわと寄っていき、やがてPCの画面枠がシネマスコープの枠にぴたりと合わされていく。極めて意図的な構図だ。ゆっくりとした時間の流れが心地よい。眠りに落ちてゆくような時間。まさにここから、観客は、スクリーンと映画館の枠外の現実をしばし忘れ、映画という夢の中へと引きずり込まれることになる。エンドロールとともに流れる、トム・ラッセルの見事な歌声に再び覚醒されるまで。

 作品は、ヴェルダを主演女優とする映画の撮影過程を、劇中劇の形で映し出していく。そこでは、映画という夢に憑かれた人々のさまざまな欲望、相互の衝突、出しぬき合い憎しみ合いが展開され、作品は、それに応じて複雑な入れ子構造をなしていくだろう。

 その構造の妙については語らずにおく。それよりも何よりも、この作品の魅力は、映画という夢にとりつかれた映画監督の、そのとりつかれっぷりにあると思うからだ。ミッチェル・ヘイブンは言う。「監督の仕事は、1にキャスティング、2にキャスティング、3にキャスティング」。

 ならば、自ら発掘しキャスティングした主演女優に、これが監督の特権だとばかりの公私混同、虚実の見分けがつかなくなるほど溺れ、彼女に見る「夢」に自ら巻き込まれ呪縛されていくのが映画監督というものだ。そして、その結果、人を殺めてしまい、「夢」から覚めたときには監獄にいたということだってあるだろう。果たして、彼にとっては、自らを呪縛する「夢」の中が監獄なのか、それとも「夢」から覚めることが監獄なのか――。

 カメラ、窓、部屋、監獄、PC、スクリーン、…。その他幾重にも内外を隔てる「枠」を巧みに駆使しながら、モンテ・ヘルマンは、ひょいひょいと夢と現実をまたいでみせる。だが、本当は、それは軽やかさや華麗さとは無縁だ。この作品が、ヴェンダースからジャームッシュタランティーノからギャロまで多くの映画作家を魅了した、あの伝説のロードムービー『断絶』(1971年)のヒロインであり、その後アート・ガーファンクルの自宅で自殺したローリー・バードに捧げられていることを忘れてはならない。

 女を乗せて疾走し競争する二台の車を、ただひたすら映し出していくという、あの過激なまでの純粋さ。ワシントンDCへとひた走る、レース用にチューニングしたあの55年型シェヴィの道行は、またローリー・バード演じる「女=ザ・ガール」への疾走の道行でもあり、最後バイク男に女をかっさらわれることで、その「道」はプツンと永遠に「断絶」されたのだった。以降、「ザ・ガール」への道は、「Road to Nowhere」だ。

 いや、映画監督が挑む「ザ・ガール=主演女優」への道は、いつだって「果てなき路」である。到達できるはずもない道を、今日もまた彼は行かねばならない。そして、抗いがたく迫ってくる女優の口元に、魅せられ引き寄せられては、夢と現実を彷徨っているのだ。

中島一夫