哲学への権利(西山雄二)

 先日、神戸大学で上映会が行われた、「国際哲学コレージュ」についてのインタビューフィルム。「国際哲学コレージュ」は、1983年にジャック・デリダらがパリで創設した、半官半民の研究教育機関。議長(3年ごとに交代)と50名のディレクター(6年ごとに改選)の合議制で運営され、これらの職はすべて無報酬、研究プログラムもすべて無料で、あらゆる人々に開かれているという。

 「国際哲学コレージュ」のあり方のついての議論は、各地でのシンポジウム(http://rightphilo.blog112.fc2.com/  なお、神戸大学上映会では、松葉祥一や市田良彦らがコメントを行なった)や、新聞各紙、「atプラス」などの雑誌で、すでにさまざまに論じられている。ここでは、印象的だったシーンについて少しだけ触れておきたい。

 ラストで、監督は、デリダの弟子であるカトリーヌ・マラブーをはじめとして、インタビューに協力してくれた7名と次々に握手する。ある意味で、ここにこのフィルムのすべてが凝縮されているといってよい。作中、7名の手がアップになり、最後にまた「握手」がアップになるのだから、この「手」の身体性に、ある種のメッセージがこめられていることは明らかだ。

 私は、この握手を見て、ヴェンダースの『ベルリン天使の詩』の忘れがたいワンシーン――元天使役のピーター・フォークが、普通の人には見えない「天使=幽霊」に向かって、「兄弟!」と握手を求めていくあのシーン――を思い出していた。

 壁崩壊直前のベルリンにおける瓦礫や廃墟の風景を、メランコリックに描いたあの作品のテーマのひとつは、場=共同性の崩壊だった。とりわけ、「黙読共同体」の象徴たる図書館において、「最後の語り部」たる老人が、自らの基盤たる「音読共同体」が失われていくさまを嘆きつぶやくシーンは印象的だ。

 そんななか、ベルリンの街を闊歩する「遊歩者=探偵」たる異邦人のピーター・フォークが、誰それ構わず「兄弟」と呼びかけながら握手をしていく。それによって、あらゆる共同性が潰えたあとの、歴史の廃墟のようなベルリンの片隅で、共同性ならぬ共同性が、奇跡のように立ちあがるのだ。

 この映画を見た柄谷行人浅田彰は、思わず「ピーター・フォークジャック・デリダそっくりだ」と口々につぶやいたという(『天使が通る』)。確かに、ストレンジャーピーター・フォークの握手には、デリダ的な、誰それ問わない「歓待」の精神と、「脱構築」された共同性=アソシエーションが体現されているようにも見える。

 「ピーター・フォークデリダ」説は、さらに浅田によって「柄谷=デリダ」説へと変奏されていった。

 「こうして、デリダが『マルクスの亡霊たち』で予告した「新しいインターナショナル」を目指すことと、柄谷さんがカントやマルクスをひいて「新しいアソシエーション」を志向することとは、多くの違いにもかかわらず、どこかで結びついているという印象を受けます。」(柄谷行人鵜飼哲との鼎談「Re-membering Jacques Derrida」、『新潮』2005年2月)

 実際、フランス「1901年法=アソシエーション法」に基づいて設立された、デリダの「国際哲学コレージュ」と、柄谷行人が『世界共和国へ』ほかで提唱する「アソシエーション」は、理念において酷似している。この類似は、ベルリンの壁崩壊にはじまる、その後の資本のグローバル化を予兆として映し出す、あの『ベルリン天使の詩』に、そしてとりわけピーター・フォークの「握手」に、すでに暗示されていたといえば言い過ぎだろうか。

 カメラをはじめて回した、という監督によって撮影された、この『哲学への権利』というフィルムは、はからずもそうした「連想=アソシエーション」をかきたてる。ただ、流動的で脱構築的なアソシエーションが、グローバル資本主義に対抗できるかどうかということについては、また別に議論を要するだろう。

中島一夫