疎外と天皇(三島、江藤、柄谷)

 拙稿「江藤淳新右翼」(『江藤淳 終わる平成から昭和の保守を問う』)は、「右からの六八年=保守革命」(フォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』)の文脈で、江藤と三島を捉え直してみたものだ。だが、柄谷行人が「新しい哲学」(1967年、『柄谷行人初期論文集』)で、とうに同様な指摘をしていたことを最近思い出した。

 

 もちろん、柄谷は「右からの六八年=保守革命」や「新右翼」という言葉で述べてはいない。一言で言えば、柄谷は疎外論の文脈で捉えていた。そこでは「国家」と「市民社会」の分離とは、人間を類的存在という「本質」から疎外するものであり、その「疎外」を明確に認識し批判し得た存在として、三島と江藤とが論じられるのである。

 

戦後民主主義の虚妄に賭ける」という丸山真男はおそらくこの自己分裂の現実がどれ程深く文学者の表現にくい入っているかについて知らないか、梅本のように政治的有効性においてしか考えようとしないか、のいずれかである。政治学者は「合理化」の度合をプラグマティックに考量していればいいらしいが、人間の今の自己回復について過敏な少数の文学者は端的に分裂を表白する。その一人が三島由紀夫であり、また江藤淳なのである。三島は市民社会大衆社会)の私的実存にとって民主主義国家が疎遠なものと化し、利己的で非本質的な人間が競争する醜悪な現実に対して、ほとんど原理的といってもいい程わかりやすい反応を示す。つまり国家を市民社会の側にひきもどすこと、国家というかたちで疎外された人間の本質(類的本質)をひきもどすこと、そのためには(国家を揚棄するのではなく)国家を宗教化すること、いいかえれば天皇を神とすることである。天皇が三島にとって現状否定のシンボルとなるのは、それが転倒されたかたちでの市民社会揚棄をめざすからであり、林(注―房雄)にとって現状肯定のシンボルとなるのは、それが「民主主義」の保守的機能を果すからである。

 また江藤淳は国家と市民社会の分離を「喪失」として、つまり人間的本質の喪失として把握し、それが文学的言語の中にいかに表出されているかを指摘してみせる。かつての江藤淳はいわばブルジョア的合理化のイデオローグであり、それを散文化のうちに見ようとする文芸批評家にすぎなかった。その姿勢が実践的であるだけ、彼は市民社会の散文化自体が人間的本質の「喪失」を伴うことに気づいていなかった。だから僕は松原新一の江藤批判は実に下らないとしか思えない。松原の小道徳的批判にも拘らず、江藤淳の「転向」の意味するものは二つの点で鋭く僕ら自身に関わっている。第一に、先に述べた現状況の変化、第二にその変化を感性的にとらえうるために必然的に江藤がやらねばならなかった何ものかの放棄。すなわち〈行動する批評家〉から〈見る人〉への転換である。

 江藤淳が〈見る人〉であり、病者としての自己と世界を〈見る人〉であるのに対して、三島は「病者であるとともに医者でなければならぬ」といって積極的に思想を語りはじめる。但し三島の思想は「めざめた夢」(フォイエルバッハ)にすぎない。国家と市民社会の分裂は市民社会内部の分裂の表象なのだから、国家幻想のうちに市民社会を吸収しようとする空想は刹那的にしか実現されないことは先験的に明らかである。いずれにしても三島や江藤の意識に(たとえ転倒されたかたちにせよ)まるで鏡のように現実が映し出されているの驚かざるをえない。それに反して左翼知識人の意識に映っている危機感は、せいぜい民主主義の危機か戦争の危機でしかない。マルクスをいかにかじっても、彼らは〈見る〉ということができないのだ。(柄谷行人「新しい哲学」)

  

 三島と江藤にとって、「戦後民主主義」とは、「国家」と「市民社会」が分離、分裂しているにもかかわらず、それがないかのように、さらに言えば民主主義革命によって、あたかも「国家」が乗り越えられたかのように見なす「ごっこ」(江藤)であった。だからこそ、彼らはまず、人間の「疎外」を明確にしたうえで、「国家を市民社会の側にひきもどすこと」を目論んだのだ、と。

 

 つまり柄谷は、三島と江藤は、初期マルクス的な疎外論を共有していたと言っているわけだ。だからこそ、ニューレフトと交差し、保守革命を志向し得たのだといえる。保守革命は、必ず「本質=故郷」からの「疎外」をモチーフとするからだ。そして彼らが、「天皇」を最も疎外された者として、すなわち民衆の「疎外」を表象=代表する存在として捉え直し、それに対するフェティッシュ的な欲望を共有していたことも言うまでもないだろう。

 

 逆に言えば、彼らは、天皇へのフェティシズムを持つことによって、疎外論を保持し得たということだ。もし疎外が解消されるなら、還元し得ない存在がフェティッシュ化することもないからだ。

 

 市民社会マルクス主義の大衆天皇制論(松下圭一)や、廣松渉の疎外革命論批判(社会構成論)は、この疎外=フェティッシュが、松下のように陣地戦的に漸進的に、であれ、廣松のように錯視を除去することで一挙に、であれ、解消可能であるかに見なした。ここに誤りがあったのではないか。それらは、現在の「リベラル天皇制」や「新しい社会運動」にまで理論的にまっすぐつながっている。

 

 だが、マルクスによる商品の物神性論の「肝」は、商品の関係に、人間の社会的諸関係が、ひいては支配と隷属の関係が、(転倒されて)隠されているということではなかったか。商品の物神性とは、支配と隷属という人間相互の関係が、商品相互の関係に置換されたものだ。すなわち、資本主義による商品の物神性に覆われた近代市民社会とは、前近代的で封建的な支配と隷属の関係が抑圧された擬制にすぎず、前者における自由や平等は、後者を隠蔽したイデオロギーである。近代になって封建制から市民社会になったといっても、資本主義的な市民社会自体が、常にすでに「半」封建的なのだ。

 

 言い換えれば、資本主義における商品の物神性が存在する以上、支配と隷属からくる「疎外」がなくなることはない。疎外は、「自由と平等」のイデオロギーで抑圧され塗りつぶされ解消されたかに見える。

 

 だが、疎外が決して解消されていないことは、ほかならぬ「天皇」の存在が示しているのだ。先に述べたように、「天皇」とは、民衆の疎外が集積され表象された「もの」だからだ。「天皇」は疎外が解消されない証であり、「天皇制」とは半封建の残存ではなく、資本主義―市民社会そのものの半封建性の表れなのである。三島と江藤が、疎外から「天皇」をフェティッシュ化したゆえんだ。

 

 柄谷は、「新しい哲学」の時点でそれを触知していながら、私見では、その後『探究Ⅰ』の段階で「転回」した。『探究Ⅰ』で、商品と商品との関係に、垂直的な支配と隷属関係ではなく、水平的な(当時は「斜め」の言われた)非対称性や他者性を見出していった時、いわゆる「市民社会論」に漸近していったのではなかったか。その時、疎外―フェティシズムが見失われた(置換された)のだ。柄谷の他者論に、もう天皇の姿はない。

 

中島一夫