ゴダール・ソシアリスム(ジャン=リュック・ゴダール)

 すでに昨年末に東京で見ていたのだが、今ひとつ何かを語る気が起こらなかった。やれ「音と映像がすごい」とか、「女性が美しい」とか、言わずもがなの当たり障りのないレビューやコメントや、作品を切り刻むかのごとく必要以上に精緻なそれがあふれ、あいかわずのゴダール業者たちによるゴダール囲い込みが盛んである。

 それは、昔さんざん見た光景――ゴダール毛沢東主義だからダメだとか、逆にゴダール毛沢東主義者とだけは言わせないとか――の弱い反復でしかない。

 言うまでもなく、ゴダール毛沢東主義イカれた「から」面白いのである。にもかかわらず、どうやら、あいかわらずゴダール業者たちは、この新作を、何とか「社会主義」とだけは遠ざけておきたいようなのだ。

 それに対して新作のゴダールは、こう言っているように思える。「何をごちゃごちゃ言っているんだ。画とか音とか言うまえに、まずタイトルを見てくれよ」。

 これほどまでにストレートなメッセージを発しようとするゴダールには、正直感動を覚えずにいられない。ゴダール業者は絶対に怒るだろうが、これは、たとえば、マイケル・ムーアの『キャピタリズム』と対にあるような作品として見るべきではないか。『GOODBYE Mr SOCIALISM』(邦題『未来派左翼』)などというアントニオ・ネグリに対する批判として、それはとらえるべきであろう。ゴダール同様マオイストだった、哲学者アラン・バディウ――今作に本人も登場する――がいう、「大文字の概念」としてのコミュニズムを、まさに今ゴダールは掲げようとしているのだ。

コミュニズム仮説は、前に述べたように、正しい仮説でありつづける。私は、ほかはいっさい目に入らない。もしこの仮説を放棄するならば、集団行動という次元でなすべき価値のあることはない。コミュニズムの視点、この〈大文字の概念〉なしには、未来の歴史や政治に哲学者の興味をかきたてるものは何もなくなってしまう。(『サルコジとは誰か?』)

 「お金は公共の財産だ」、「水と同じね」という、経済学者ベルナール・マリスと、この作品の主人公ともいえる少女「アリッサ」との冒頭の会話から、それは明らかだろう。「空気、水、火、とともに、金(マネー)は人間がしじゅう勘定するはめになる第五の自然力だ」という、作家ヨシフ・ブロツキーの言葉を想起させるようなやりとりだが、世界が自然のごとくお金に包摂されてしまった以上、それにふさわしくお金を自然のように扱うほかない。このことは、世界金融危機以降明らかだ。それにしても、なぜお金が「水と同じ」ようになったのか。

 それを示唆しているのが、第一楽章「こんな事ども」全体を規定している、「海の支配」というやつだ。今作の「海」は、もはやかつてのゴダール作品に見られた真っ青なそれではない。不気味で不穏な漆黒の海だ。

 それは、カール・シュミットが、『陸と海と』にいうところの海――16世紀以降イギリスが、従来のように陸ではなく、海の支配に転じたことで空間革命を引き起こし、決定的に世界資本主義のヘゲモニーを握っていくことに成功していった、その「平滑空間」(ドゥルーズガタリ)としての海――である。

 ナレーションはいう。「平面上の移動は、目的が帝国支配であれ、観光であれ、自己を主張する空間的フォルムである」。第一楽章で地中海を周遊する、豪華客船「ゴールデン・ウェブ号」(ウェブ化された金?)による「平面上の移動」。

 すでに海という空間が平滑空間化している以上、この豪華客船の上で、人はディスコやスロットに興じながら、また運動不足解消の体操に参加しながら、知らず知らずのうちに「海の支配」に加担しており、海を漆黒に染め上げているのだ。この変質した「海=空間」においては、市民戦争時のスペインの黄金は、モスクワのコミンテルンへの移動中、何者かに奪われ大半が消失し、「条理空間」を読み解いて事件を解決していく探偵の捜査も、もはや無効となるほかはない。

 続く第二楽章「どこへ行く、ヨーロッパ」では、フランスの田舎町でガソリンスタンドを営む一家の選挙にまつわる話が、さらに第三楽章「われら人類」では、人類史を築いたエジプト、オデッサパレスチナギリシャナポリバルセロナ(ゴールデン・ウェブ号の航路)の映像が、おびただしい映像史の引用とともに次々に展開していく。

 それらをこれ以上追っていくことはしないが、この作品についてのコメントで、いくつか柄谷行人の名前が挙げられていたのは印象的だった(「映画芸術」の稲川方人や安井豊作など)。

 それらは柄谷の近著『世界史の構造』からの連想にとどまっていたが、さらに踏み込めば、柄谷が、それを乗り越えるものとして掲げる、資本―ネーション―国家の三位一体構造は、それぞれ述べてきた第一楽章(資本)、第二楽章(ネーションにおける代表制)、第三楽章(国家の暴力)のテーマにそっくり当てはまる。この一見異質な両者の思考が、本質的には「be動詞」ではなく、「と=あいだ」をめぐっているという類似性に、改めて気付かされるのだ。

 本作は「法が正しくないときには、正義が法を勝る」としめくくられ、その後観客を突き放すように、ぶっきらぼうに「ノーコメント!」と閉じられる。これも、ゴダールに一貫してある国家批判である以上に、時々いらだったように言い放つ柄谷を連想させてやまない。「コミュニズムがどういったものかは説明できても、どうしてそれが正義なのかを人に教えることはできない!」。

 社会主義の悪や無効をいう者たちの材料に事欠かない現在にあって、ゴダールは「社会主義は正義だ」、そしてそれ以上聞かれても「ノーコメントだ」と言っているのである。

中島一夫