国民文学論は不毛だったか(その2)

 六〇年安保は、竹内の「民主か独裁か」の声とともに、あれほどまでに「国民」的に高揚していったといわれる。

 

 竹内は、「民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でないものは民主である。中間はありえない」、「そこに安保問題をからませてはならない」と言った。安保闘争を「安保問題」ではなく、「国民」(民族)の「民主主義」の問題へと転回、収斂させていったのである。

 

 「民主か独裁か」の「民主」とは、西洋「近代主義」的で形式的な代表制民主主義が「独裁」に向かっているとして、それに対して真の「民主(主義)」を掲げようとするものだった。竹内の中では、真の「民主」と中国・毛沢東の「民族」とが、反「近代(主義)」=反西洋という一点で矛盾なく結びついていた。

 

そのような中国への高い評価は、欧米流の近代的な合理主義、およびそこに包摂される議会制民主主義を、多分に「形式的な民主」として懐疑の目を向ける姿勢と表裏一体のものでした。だからこそ、安保闘争における学生・民衆の直接行動を独裁に対峙する「民主」として評価する姿勢と、毛沢東時代の中国の政治状況を真に「民主」的なものとして――そこに形式ではない真の「民主」につながる契機を読みとって――肯定する姿勢とが、竹内の中では矛盾なくつながっていたわけです。(梶谷懐『日本と中国、「脱近代」の誘惑』二〇一五年)

 

 したがって、竹内自身は一貫して中国の方を向いていたが、先に述べたように、それ自体が冷戦構造の中では、不可避的にスターリン批判以降、「独裁」を捨て「平和共存」路線を進めつつあった、「平和」勢力としてのソ連を背景に可能となったのである。

 

 ならば、この「国民文学論―「民主か独裁か」」の線で、この国の「反米(親ソ)―愛国(民族)―民主―平和」はほぼ完成したとはいえないか。それは、現在の平和憲法を保守するリベラルへとつながっている。だとしたら、竹内の国民文学論は、不毛に終わったどころか、「現在」をも規定するこのイデオロギーを醸成させていく論争だったのである。

 

 「反米」を即「親ソ」は言い過ぎだろうか。だが、このあたりから左右は「共存」し混然一体となっていく(竹内はその象徴的な人物の一人だろう)。鵜飼哲が言うように、「唯一被爆国日本という言い方は、左右相乗りで五〇年代後半に出てくる。それが、六〇年安保の「巻き込まれる論」を規定した」(討議「「1968」という切断と連続」『悍』創刊号、二〇〇八年)。五〇年代後半から六〇年安保にかけての「民主―平和」論は、すでに「左右相乗り」である。「安保反対」の「対米従属―反米愛国」論も、社会党共産党主導であった。一国平和主義=一国社会主義であり、それが「戦後民主主義」というものだった。竹内の「国民文学論―「民主か独裁か」は、明らかにこの路線上にあった。

 

 その時、竹内の「民主か独裁か」、その「中間はない」は、いかなる機能を果たしたのか。以前書いたように(「江藤淳の共和制プラス・ワン」『子午線』vol.6)、丸山眞男「復初の説」(一九六〇年)――一九六〇年五月二十日(安保強行採決の日)は、一九四五年八月十五日の「反復」である――は、原爆―敗戦というこの国のトラウマを、「今度は巻き込まれるな」という形で象徴化した。「民主(主義)」革命はすでに「八月十五日」に訪れており、あとはそれを守ることだけが課題である、安保闘争は「八・一五革命」の「反復」としてあり、「八・一五革命」は安保の「原点=復初」である――。

 

「「五月二十日」が「八月十五日」を「反復」することで、外傷=現実界としてあった「八月十五日」を象徴界に回収するとした「復初の説」のミッションは完成した」(前掲論)。言い換えれば、「五月二十日」が「八月十五日」を「反復」するとは、「反復しない=過ちは繰り返しませぬから」ということにおいて、そうなのだ。

 

 竹内の「民主か独裁か」、その「中間はない」とは、すでに「成就」した丸山のいう「八・一五革命」を「反復」的に継承するか(民主)、否か(独裁)を迫る踏み絵だった。踏み絵なので、実質後者の選択肢はなかった。そして、六〇年安保において「反復」することで、前者の「八・一五革命=民主」を、この国の象徴界へと登録し、後者の「独裁」を象徴界の穴から「外傷=現実界」へと完全に捨て去る言説として機能した。そのとき、まさに「中間はない」ように「去勢」が行なわれたのだ。以降、われわれは、いまだに「独裁」を、原爆―敗戦というトラウマ=タブーとしてしか感受できない(前掲論で述べたように、そのタブーは「王殺し」のタブーと表裏である)。むろん、プロレタリア独裁を含めてである。

 

 だが、「民主か独裁か」の「独裁」とは、本質的には「民主」においては曖昧になってしまうほかない「主権」のありかの問題ではなかったか。それ以来、われわれは主権そのもののかわりに、「主権」の象徴物(名ばかり「国民主権」)で我慢する「主体」となった。母の不在を、その象徴物=糸巻きで我慢するフロイトの孫娘のように。フロイトは「子供時代はもうない」と言ったが、われわれには「主権時代はもうない」。「民主か独裁か」は、このように、この国の「Fort(独裁)―Da(民主)」として機能したのではないか。

 

 主権そのものを再び思考するには、すでに忘却されている五月二十日を糸巻きそのものとして手繰り寄せ、そのうえで八月十五日―五月二十日の鎖を解きほぐす「日本精神分析」(柄谷行人)が必要だろう。竹内の国民文学論は不毛に終わったという言説は、「国民文学論―「民主か独裁か」の過程で起こった、これら一連の「主体」化=去勢やトラウマを、忘却させるものでしかなかったといえるだろう。

 

中島一夫