ヒア アフター(クリント・イーストウッド)

 物語を形づくる一つの一つの素材はありふれているのに、それらのピースが組み合わさると、どうしてこんなにも新しく豊かになるのだろう。
 泣ける要素は満載なのに、なぜこんなにも「お涙頂戴」とは異質の感動がもたらされるのだろう。
 見事というほかはない。

 前作『インビクタス』冒頭の不穏さは、朝の散歩中のマンデラにテロをもたらすことはなかった。だが、この新作冒頭の不穏さは、避暑地のヴァカンスをあっけなく大津波に巻き込んでゆく。

 パリの街角にポスターが貼られるほどの人気キャスター「マリー」(セシル・ドゥ・フランス)は、土産物を買いにおりた露店街もろとも津波に飲み込まれてしまう。

 この津波の映像が圧巻だ。徐々に津波が襲ってくるときの緊迫感もさることながら、彼女が飲み込まれたあと、浮きつ沈みつ流されては障害物に後頭部を襲われるに至るまでを追った映像には、たとえCGだと分かっていても、精巧さというのとは違う質のリアリティがある。さまざまな視点や角度からのカットと編集がいかに重要か。

 彼女は、このときの臨死体験と、渦中に見た「彼岸」(ヒアアフター)の光景が頭から離れなくなる。番組中も気もそぞろでキャスターを降板、やむなく休養を取り、その間に政治ジャーナリストとして、ミッテラン元大統領にまつわるスキャンダル本を執筆することになる。だが、ヒアアフターにとりつかれた彼女が書いてしまったのは、やはり「来世」(ヒアアフター)の本だった。

 「来世の本ならアメリカかイギリスで出してもらえ!」(日本でも?)
 「これこそ政治の本よ!」

 現実的な政治の国での、臨死体験への無理解。その体験を経てしまった今となっては、同じ体験をした者らが同じように周囲の無理解にあい、社会から疎外されながら生きているさまこそが、彼女にとっては、大物政治家の「真実」よりもよほど真実の「政治」なのだ。

 最後の砦だった恋人の番組プロデューサーからも裏切られ、孤独に陥る彼女。「あの時までの私には何もかもがあった。リッチだったし、あなたもいた」。ヒアアフターを経験した者が、それによって「ヒア=今ここ」で疎外されていくこと。イーストウッド的な疎外と孤独の主題が、徐々に浮き彫りになってくる。

 一方、幼い頃脳脊髄症によって同じく臨死体験に見舞われた、サンフランシスコに住む「ジョージ」(マット・デイモン)。彼はそれが原因で、相手の手に触れただけで、「ボンッ」という衝撃とともに、相手の周囲の死者と交信ができるようになってしまう。その能力で霊媒師として稼いでいた時期もあったが、その能力は彼にとって、他人とまともに付き合えなくさせる「呪い」だった。

 さらにロンドンでは、ある少年の孤独が描かれる。何から何まで頼ってきた一卵性双生児の兄が、交通事故死してしまうのだ。麻薬中毒の母とも引き離され(母との別れのシーンで、抱擁する二人の背後の窓の外に雨が降っているロングショットが素晴らしい)、里親に預けられた彼は、だが周囲になじめず、片時も兄の形見の帽子をその身から離そうとはしない。「僕を一人にしないで」。そして、次から次へと霊媒師を訪れては、何とか兄と言葉を交わそうとするのだ。

 もし、この作品が、こうした「ヒアアフター」の話に終始していたならば、凡庸な作品でしかなかっただろう。ヒアアフターをくぐり抜けてしまった、あるいはくぐり抜けようとしているために、それぞれ孤独、孤立に陥っている三つの魂たちは、ロンドンのブックフェアの「朗読会」という場所で、ついに交錯することになる。

 孤独に疎外されながら生きている者たちが、だが自らの言葉を自らの声で読み、それをまた他なる者たちが自らの耳を傾けているうちにゆるやかな結びつきができていく――。この、ある意味最も人間的で身体的ともいえる「朗読」という行為によって、「ヒア=今ここ」で「場」を共有し交通し得ること(そもそもマット・デイモンは、ディケンズの朗読CDを夜な夜な聴く男であり、そんな彼がディケンズ博物館を訪れたことが、この三者の邂逅の発端となる)。『ヒアアフター』とは、徹頭徹尾「ヒア」における希望の物語なのだ。

 アーケードのカフェー(ベンヤミンの「パサージュ=交通」!)で、セシル・ドゥ・フランスを一人待つマット・デイモンが、彼女との熱いキスを想像するラストシーン。

 だが、このとき、彼を悩ませてきたあの「ボンッ」というヒアアフターの「呪い」の音は、もはや聞こえない(だからこの映像を、特殊能力を持つマット・デイモンの予知能力のなせる技とみる必要はないのだ)。そのときわれわれは、ここは「ヒア」なのだという、ただそれだけのことに、得も言われぬ深い感動を味わうことができる。

 「死を恐れたり不安に思ったりすることに熱中しすぎてはいけない。そのことで、生きることを恐れたり、不安に思ったりすることになってしまうから」。

 あるインタビューでイーストウッドは言う。こんなことを語る人間が、死に興味をもって映画を撮ることなどあり得ようか。イーストウッドの「ヒア」への強い思いを共有する者だけが、この『ヒアアフター』という作品と、真に「握手」することができるだろう。

中島一夫