ミッドナイトスワン(内田英治)
トランスジェンダーに夜の街というあいかわらずの組み合わせ、性別適合手術を受けた主人公の胸がはだけてなぜか露わになるシーン、あたかもタイの医療技術が未熟であるかのような展開…。違和感は多々あった。だが、それらについてはトランスジェンダーの立場からの指摘がすでにあるので措く。見ていて辟易としてしまったのは、「結局、また子供か」と。
トランスジェンダー(MtF)の主人公が、育児放棄された親戚の子供を預かることになり、徐々に自らの母性に目覚めていくストーリー。その時、主人公に性別適合手術を決意させるのが、バレエの才能という、例によって子供の未来の可能性なのだ。
今に始まったことではないが、昨今の想像力は、未来をほとんど子供(の可能性)においてしか表現し得ない。評判になったものは、ほぼすべてがそうだと言える。本作も、最近の日本映画においては、リピーターもついてそこそこヒットしている方だろう。
だが、LGBTの疎外を悲劇として描くのはいいとして、その疎外が母として子供を育てることからの疎外へと回収されるとき、それは結局市民社会の再生産への包摂を補強する物語にしかならない(本作の主人公には、パートナー(との葛藤)の影が一切ない)。
逆にいえば、だからこそ、LGBTではない観客からすれば、登場人物らの疎外(彼らは何度となく「なぜ私だけ…」と叫ぶ)が、想像の範囲内である社会的包摂に収まるものであることに、安心して感動もできるのである。
「子なし夫婦は存在している意味がないから、もう死ねと言われているようなものね」。見終わって妻が言った。彼女は最近の映画をあまり見なくなった。疎外感しか感じられないからだろう。しかもマイノリティーでもなければ、それは「疎外」からも疎外されているのだ。
(中島一夫)