イノセント・ガーデン(パク・チャヌク)

 この監督の作品は、過剰で辟易とさせられるところもあるが、今作は極めてソフィスティケートされている。何しろハリウッド進出作だ。

 頭脳明晰にして美しく、人並みすぐれて研ぎ澄まされた五感をもつ少女「インディア」(ミア・ワシコウスカ)は、18歳の誕生日に大好きだった父(ダーモット・マローニー)を、不審な事故死で喪う。母(ニコール・キッドマン)と二人残された家に、行方不明だった父の弟(マシュー・グード)がやって来て、父と入れ替わるように住みつくこととなる。

 毎年、インディアの誕生日に靴をプレゼントしてきた父だが、今年に限って箱の中身は鍵だった。まるで、その鍵を娘に託すようにして父は死んだ。すべての謎を解くカギは、まさにその鍵にある。

 このベタな設定と仕掛けが示すように、この作品には逸脱がない。どんなにおどろおどろしい映像や描写があっても、物語の求心性に丸く収まってしまうのだ。それを示すように、丸く並べられた靴の箱や、庭に並べられた丸石、丸く穴の開いたハンモック、丸く腰に(そして首に!)巻かれたベルトなど、作品は「円=丸」のイメージで占められている。

 その求心的な物語とは、エディプス・コンプレックスにほかならない。狩りを筆頭に、何から何まで父と趣味や感性が合うインディアは、当然のように母を疎んじている。彼女は、典型的な父への同一化と母殺しの欲望を抱く「イノセント」な少女なのだ。

 一方、幼少のころから、兄に嫉妬を覚えてきた叔父=父の弟は、そんなインディアをずっと慕い欲してきた。インディアは、当初父に似たこの叔父に惹かれたりもするが(母と彼との秘め事を見て余計に)、それもすべて「鍵」を開けるまでだった。

 ラストシーンで、これまた円を描くように、物語はオープニングに戻ってくる。ラスト=オ−プニングで、道路のセンターラインをまたいで向こう岸に渡り、保安官を追いかけて殺しにいくインディアは、ついに円のごとく閉じられた物語の軌道の外へと、ラインを一歩踏み出していったのだろうか。

 いや、血に染まる向こう岸の草むらが、インディアが梳かしていた母の髪と、隠喩的に結びついていたシーンがあったことを忘れてはならない。しかも、その草むらは、父と寄り添って銃を構え、二人で呼吸を合わせては息を殺して「獲物」を狙っていた場所でもあった。

 インディアは、父を殺害した叔父とともに、このときやはり母をも殺したのだ。保安官とは、「それはタブーだ」とばかりに父との同一化を阻む、法の番人としての「母」の隠喩=代理でなくて何であろう。「イノセント・ガーデン」とは、「インセスト・ガーデン」にほかならない。

中島一夫