そして父になる(是枝裕和)

 父はエス(無意識)である――。

 子供の「とり違え」が分かってから、逡巡はあるものの、結局「良多」(福山雅治)は「実の子」を選ぼうとする。仕事で育児に熱心でなかった彼は、息子の「慶多」との間がしっくりといってはいなかった分、妻に比べると「血統」の方に傾きがちではあった。

 だが、6年間「親子」としてともに過ごしてきた慶多が、家でうたた寝している自分の姿を何枚も写真に収めていたことを知って、大きく揺さぶられる。「寝姿」と「写真」。この、意識で統御できない二重の無意識の領域において、自らの「父」たる所以を突き付けられたのだ。

 思えば、以前慶多は、父のカメラを譲り受けることを頑なに拒絶していた。おそらく、こっそり撮った寝姿の写真を父自身に見つけてほしかったのだ。良多が普段あまりに忙しくしているので、息子は、デジカメに忍ばせたメッセージを通して、眠っている父と会話しようとしていたのである。

 それにしても驚いたのは、病院関係者の語る、赤ん坊を取り違えられた両親は「100%交換という選択肢を選ぶ」ということだ(生まれて間もないケースが多いということもあるのだろうが)。この「万世一系」の国では、やはり親子とは「血縁」だということなのだろうか(ちなみに、本作においては、明らかに「父」の系譜が重視されているものの、下敷きとなった「参考書籍」(奥野修司『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』)では、対照的に、沖縄という土地もあってか、子供たちは「母」の力に大きく左右される)。

 だが、この作品は、その親子=血統に対する確信を宙づりにしてみせる。良多は、血縁があることが判明した「琉晴」(黄升荽)を教え諭そうとするものの、一向に納得しない。「今日からおじさんを「お父さん」と呼びなさい。そして(向こうの)パパを「パパ」と呼んじゃだめだ」「何で?」「何でも」「何で?」

 良多の家より明らかに下層の家で育ち、また沖縄の晴天の空からそう名づけられたという琉晴が、都心の高級マンションに住むエリートサラリーマンが漠然と信じている血統の根拠を揺るがすこと。この下層と沖縄からの「中心」への一撃に、作品の革命的な野心が垣間見えるというのは言い過ぎだろうか。いや、良多が、大手ゼネコンの上司から、理由も曖昧なまま地方への左遷を命じられるのも、この何やら不穏な「革命」を嗅ぎつけられたからではあるまいか。

 だが、その革命は、決して声高に主張されることはない。登場人物たちは、ほとんど感情を押し殺している(リリーフランキーが、経済的に優位な自分が「両方引きとる」と暴言を吐く福山雅治の頭を、軽くはたくシーンなど)。それは、何かと激情を露わにする現在の映画やドラマに対する、この監督のスタンスだろう。

 この「静かさ」は、すべてを微温的に回収することに貢献する。ラスト、両家族が「TSUTAYA」の看板のもとに結集する。観客は、彼らが、まさにTSUTAYAのDVDのように、お互いが育てた息子を一時的にレンタルし合っただけで、最終的に元に戻し、交換という選択をしないだろうということを見届け、ほっとする。あるいは両家族は、今回のレンタル期間を通して、より親密に、曖昧に大きな家族になったようでもある。「中へ入ろう」。

 この大団円は、彼らが血統に抗う決断をしたことをユーモラスに希薄化する。その決断によって、またひょっとしたら事態をすべて理解していたかもしれぬ子供たちにの間に、生じただろう矛盾や葛藤という亀裂が、感情を露わにしないことですべて棚上げにされたまま「一本道」へと回収されていく。

 いや、この作品においては、「父」は「無意識」である以上、それは最初から決断の主体たり得ない存在である。あくまで彼らは、血統に抗う決断をした父ではなく、交換という決断を回避した(かどうかも曖昧でよくわからない)、「父=エス」なのだ(だから、父なき家族融合もあり得る)。

 もちろん、そこではもはや「息子」も、レンタルし合えるような、誰の「所有」か分からない代物である。英題の「LIKE FATHER,LIKE SON」とは、そのような意味にほかならない。

中島一夫