マンチェスター・バイ・ザ・シー(ケネス・ロナーガン) その1

 後半、主人公のリー(ケイシー・アフレック)が夢を見る場面がある。夢の中で娘たちに「お父さん、私たち燃えてるの?」と問われる場面だ。

 言うまでもなく、これはフロイト『夢判断』にある高名な夢――死んだ息子が父親の夢に現れ、「お父さん、僕が燃えているのが見えないの?」と問う――がふまえられている。思わず父は目を覚ますと、ロウソクが倒れ息子の棺を覆う布に着火しているのに気づく。煙の臭いが父の夢に作用し、その夢の「お告げ」によって未然に火事を防ぐことができたわけだ。

 だが、これまた有名だが、ラカンフロイトの夢に格段にラジカルな解釈を加える。

目覚めさせるもの、それは夢「という形での」もう一つの現実にほかなりません。「子どもが彼のベッドのそばに立って、彼の手を掴み、非難するような調子で呟いた――ねえ、お父さん、解らないの?僕が燃えているのが?」
 このメッセージには、この父親が隣室で起きている出来事を知った物音よりも多くの現実が含まれているのではないでしょうか。この言葉の中に、その子の死の原因となった出会い損なわれた現実が込められているのではないでしょうか。(『精神分析の四基本概念』)

 すなわち、「僕が燃えているのがわからないの?」という息子の言葉は、父が抱いている、息子の死に対する強い自責の念の表れだ、と。それはあまりに強烈なトラウマであり、「出会い損なわれた現実=現実界」を形成している。ジジェクも言うように、ここでは「現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ」(『ラカンはこう読め』)。

 作品に戻ろう。リーが見た娘たちの夢は、まさにこのような夢=現実界である。彼の身に何があったのかについては、作品の核心なので触れずにおこう。おそらく彼は、いまだにその出来事は、まさに夢のようにしか思えないだろう(現にその時彼は、酩酊状態で夢うつつだった)。

 ここ、アメリカのマンチェスター・バイ・ザ・シーという町(昨日テロのあったイギリスのマンチェスターではない)は、それ以来、リーの夢=現実界そのものとなるのだ。それは、リーの妻、兄弟、家族のみならず、昔なじみの土地の人々とのつながりを持てなくさせてしまう。

 現実界は、リーの言うように「どうしても乗り越えられない」ものだ。それは現実と分け隔てられておらず、容赦なく現実に浸透してくる。したがってラカンジジェクが言うように、よく混同されるが、「現実界」はカントの「物自体」とは別物である。もし後者なら、それはわれわれの知覚によって歪曲される前の現実として、われわれから独立して「ある」だろう。リーは、乗り越えるどころか、それに触れられもしないだろう。

 現実界は、リーが酒場でからみ、医者や客に暴言を吐き、甥が車から降りようとドアを開けるとアクセルを踏み込み、自分に気があるらしい女性とも普通に会話ができない、そういった数々のコミュニケーション不全の諸現実に入り込んで、ある。まさに、リーの無意識は、思うようにならない「言語として構造化されている」し、また彼は「エスのあるところに自我をあらしめよ」の声に従うほかはないのである。

(続く)