凶悪(白石和彌)

 『殺人の追憶』(ポン・ジュノ)のような、エンタメでありながら骨太の日本映画を目指したという。そして、それは成功している。

 若松孝二に師事したこの監督は、あるとき裁判員裁判のことを調べていて、事件に関係のない人々を法廷に招き入れ、より公平な裁判を目指した結果、刑が厳罰化していることに、人間の根っこにある懲罰感情の暴走を感じたという。

 この作品も、ピエール瀧リリーフランキーの「凶悪」ぶりが注目されがちだが、一方で彼らを「凶悪」視していく、記者の正義感のエスカレートぶりが見逃せない。

 雑誌社の記者「藤井修一」(山田孝之)は、元暴力団の死刑囚「須藤」(ピエール瀧)の接見に訪れる。須藤は、まだ打ち明けていない余罪三件をネタとして提供するから、それを記事にして、そのすべての首謀者である「先生」を追い詰めてほしいと懇願する。自分らを利用するだけしておいて、シャバでのうのうとしている、不動産ブローカーの「木村」(リリーフランキー)が許せない、と。編集長の代打で行ったこの接見が、すべての始まりだった。

 須藤は、殺した人間が多すぎて、名前も場所も記憶が曖昧だ。確かな裏付けのある記事にしていくために、修一は毎日のように現場に足を運び取材を重ねては、そのまだらな記憶をつなぎ合わせていかねばならない。

 事件の全貌が見えてくるにしたがって、ジャーナリスト魂に拍車がかかる。だが、それと引き換えに家庭のことが疎かになり、認知症の義母を相手に、妻(池脇千鶴)は心が折れかかっている。外で木村を追い詰めれば追い詰めるほど、家の中で妻をも追い詰めていくことになるのだ。

 「このジジイ、酒飲ませてぶっこんじゃおう」と須藤。「純次(須藤)くん、ちょっと私にもやらせて」と、嬉々としてスタンガンを老人の首に当て、バラバラ死体を焼却炉に突っ込む木村。借金苦の老人をターゲットに、次々とえげつない殺しを繰り返す二人の凶悪犯。

 木村は、殺す前に、きちんと依頼人、つまりは家族に確認をとることを忘れない。「じいさん、家に帰りたいって言ってるんだけど、ばあさんの声、聞かせてやってくれよ」。酒を飲ませたうえでの保険金殺人を木村に依頼した「ばあさん」は、「も、もっと飲ませてください」と答えるほかはない。

 木村からすれば、あくまで家族の依頼にしたがって、厄介者と借金と土地とをきれいに始末してやっているつもりなのだ。では、いったい誰が真に凶悪なのか。いや、何が人をそんなにも凶悪にさせていくのか。

 そのことは、修一の家族にも言える。追い詰められた妻は、認知症の義母に手をあげるようになる。「自分だけはそんな人間じゃないと思っていたのに」。誰も信じられず頼れないなかで、ついに自分さえも信じられなくなっていく。そこに「凶悪」は忍びよる。母を施設に入れようと躍起になっている妻は、修一から見ればまさに「凶悪」に見えたかもしれない。だが、妻からすれば、それは修一が、自分だけ正義を貫こうとしているからなのだ。

 「あなたは、事件を追求するのが面白いんでしょ」という妻の言葉は、だから「家の事より仕事の方が楽しんでしょ」という表面的な意味ではない。このとき彼女は、「あなたは、無限の正義を行使することを享楽している」と、修一という人間の核心を射抜いているのだ。

 それはまた、木村の言葉とも呼応するだろう。彼は「一つ教えてやろう。俺を死刑にしたがっているのは須藤でも被害者でもない」と言って、目の前の修一を何度も指す。ずっと接見を避けてきた木村は、まさに修一の本質を突く「先生」のような一言を残し、さっさと立ち去ってゆくのだ。

 ラスト、カメラは、接見窓口に一人残されたその修一の姿を、無限の「引き」で捉えていく。修一の正義には限りがなく、本当はその対象さえ問わないものだというように。

 彼の正義は、周囲の人間すべてを凶悪な者として裁かずにおかない。須藤の「凶悪」は、木村を刑務所にぶち込むために、修一のマスコミ権力を利用したかもしれない。だが、修一の「無限の正義」は、木村の言うとおり、彼を死刑に追い込むまで果てることはないだろう。「この事件は、まだまだこれからですよ」。

 身近な人間を「悪」に追い込んでいながら、自らは無限の正義を行使し得ると思い込むこと。このような人間ほど、ある意味で怖いものはない。中盤以降、山田孝之の顔は、ピエール瀧リリーフランキーとはまた違った意味で、みるみる怖く見えてくる。

中島一夫