ファンタスティック Mr.FOX(ウェス・アンダーソン)

 丘の上に立つ一本の木。その脇に立つパペットアニメの一匹のキツネが、やおらアキレス腱を伸ばし始める――。ファーストシーンで完全にやられた!

 真実(現実)とフィクションという作家の一貫したテーマを、新たな趣向で展開したキアロスタミの『トスカーナの贋作』も、これまた法なき国家なき戦争状態という一貫したテーマを、今度は西部劇+アンティゴネーといった装いで繰り広げて見せたコーエン兄弟の『トゥルー・グリット』も、また一見民話的・神話的でありながら、その実完全にポストモダンというギャップに意表をつかれた『ブンミおじさんの森』も、それぞれに面白く決して悪くはなかった。

 だが、このウェス・アンダーソンの最高傑作といっていいこの作品は、農場の柵を前にしたパペットの動物たちよろしく、それらを軽々と飛び越えてしまったように思える。

 Mr.FOXは、妻のMrs.FOXの薦めもあって、息子アッシュが生まれたことを機に、穴暮らしからの転居と盗みからの転職を決心する。新聞のコラムニストとして成功した彼は、丘の上の豪華な家に目をつけるが、アナグマの弁護士バジャーから反対を受ける。丘の向こうには、ボギス、バンス、ビーンズという通称「でぶ、ちび、やせ」の悪徳農場主たちが住んでいるのだ。

 バジャーの忠告を振り切って引っ越したMr.FOXは、だが人間に近づいたことで野性の血が騒いでしまい、妻との約束を破って農場からの盗みを企てる。FOX退治に結束を固める三人の農場主たちと、Mr.FOXとの駆け引き、だまし合い、そしてあくなき闘いの幕が切っておろされる。

 トラクターや銃を駆使してはジェノサイドのごとく自分たちを排除、抹殺しようとする資本家の農場主たちを目の前にして、Mr.FOXが目覚めさせる野性の本能とは、すなわち革命家のそれにほかならない。逆にいえば、ここでは、そうした当たり前の正義と闘争本能とを、いまだ喪失していない者だけが「野性」の名に値する。しっぽをミサイルで吹っ飛ばされるという身体の「疎外」を、決して放っておかないことこそ「野性」の証なのだ。まさに、「鳥のように獣のように」(マルクス)である。

 「財産は盗みである」(プルードン)とばかりに農場から盗みを働いていたMr.FOXは、その後のメディア時代に即応すべく新聞のコラムニストに転身する。「俺のコラムを読んでいるか」とアジ演説をぶちながら、周囲の動物たちの「野性」を覚醒させては徐々に同志を組織していくのだ。

 もちろん、ウェス・アンダーソンの作品に不可欠の家族物語は、今作でも健在だ。また、夫婦が、光り輝く鉱石や下水の滝を前に愛を語り合い、互いに涙するシーンもまた、無条件に感動的である。

だが、「ファンタスティックでありたい」と願うMr.FOXが真に「ファンタスティック」となるのは、絵が趣味の妻Mrs.FOXですら、敵陣の地図を描く「画家」としての役割を明確に与えることで、「同志」へと変貌させていくその瞬間である。そして、Mr&MrsFOXは、切断された自らのシッポもさることながら、農場主に奪われてしまった、自分たちの子供ではない子供を取り返しに行くこととなる。

 カメラを回しながら次から次へと仲間に名と役割とを与えていくスピード豊かなシーンや、自らのシッポをネクタイにしたビーンズ農場主を前に、その屈辱を怒りへとかえていくMr.FOXが、三段階に大きくアップになっていくシーンには、思わず胸が熱くなってしまった。このとき、Mr.FOXは、固有名を持たない真の革命家として、まさに「Mr.FOX」と「なる」のだ。

 取り返すべきものを取り返し、サイドカーで意気揚々と引き上げるMr.FOXが、それまで狼恐怖症であったにもかかわらず、遠く雪山に颯爽と立つ野性の狼にさーっと手を挙げ、言葉抜きで挨拶を交わすことができたのも、彼が取り戻した「野性の証明」である。

 と同時に、このとき人は、ロアルド・ダールの原作を超えて、この作品がまぎれもなくウェス・アンダーソンの作品であることを確信し、思わず微笑んでしまう。画面の端から端への横への移動とともに、さーっと手を挙げる言葉抜きの挨拶ほど、ウェス・アンダーソン的なしぐさも他にないからだ。

 「上手すぎる」ラストシーンについては触れずにおこう。きっと「ファンタスティック!」と叫びたくなる。

中島一夫