生政治とプロレタリア独裁――ウェス・アンダーソン『犬ヶ島』のために
ジジェクが言うように、「生政治は恐懼の政治であり、あり得べき犠牲化や嫌がらせ(ハラスメント)に対する防御として定式化される」(以下、引用は『ロベスピエール/毛沢東』長原豊、松本潤一郎訳より)。移民への懼れ、犯罪への懼れ、生態環境の破局への懼れ・・・。西欧各国における極右政党の台頭をはじめとする生政治的な行政管理が、恐懼を煽るポストポリティックスそのものと言える、グローバルな自由民主主義の内実である。
フーコーが論じたように、生政治は自由主義(リベラリズム)が要請する統治性である(『生政治の誕生』)。種々の「懼れ」は、まずもってリベラリズムの合理性に対する「敵」への「懼れ」なのだ。そして「懼れ」にもたれかかる以上、そこに「政治」はない。いや、それこそがポストポリティックスの「政治」というべきか。
では、こうした生政治の対極とは何か。
ジジェクは、それこそがプロレタリア独裁だと言う。「われわれが旧き良き「プロレタリア独裁」を生政治を突破する唯一の方法として復活させるという危険を冒したらどうだろう?」。
「プロレタリア独裁」と聞くと、人は途端に拒絶反応を起こす。まるで言われざるタブーが口にされたように。「独裁」という言葉がそうさせる? なぜ、「独裁」なのか、単に真の民主主義、あるいはプロレタリアの権力、執政では駄目なのか――。
駄目なのだ。それでは「プロレタリア独裁」という言葉のポテンシャルを掬い取れないからだ。ポストポリティックスの生政治の現在、最も重要なポイントはここだろう。なぜ駄目なのか。それは、「「プロレタリア独裁」という命題(テーゼ)は、まさにその始まりから、みずからをその他の独裁(諸)形態の反対物と位置づけてきた。というのも、そもそも国家権力が覆う領域全体が独裁の領域だからである」。すが秀実が、「戦後―天皇制―民主主義をめぐる闘争――八・一五革命vs.一九六八革命」で主題化している「反独裁の独裁」(カール・シュミット)としての「プロレタリア独裁」である(『増補 革命的な,あまりに革命的な』付論)。
レーニンが「プロレタリア独裁」を言ったのは、自由民主主義が「ブルジョア独裁」にほかならないこと、その権力の主権がブルジョアの論理を体現していることを明らかにするためだった。「自由民主主義」における「自由(主義)」(リベラリズム)に対して「プロレタリア」が、「民主主義」に対して「独裁」が、それぞれ概念として必要なのだ。
だが、注意すべきは、独裁は民主主義の対極を意味しないことだ。それは「民主主義そのものの根底に横たわる機能様式」である。逆に言えば、「民主主義も独裁の一形態、すなわち純粋に形式的な決定としての独裁の一形態」なのだ。どんなに民主主義的に見える決定も、その民主主義自体を「制定する暴力」(ベンヤミン)=国家が残存する。それは「独裁」的な存在だ。
したがって、現在問われるべきは、「民主か独裁か」ではなく、「民主は独裁」ということではないか。そうすることで、「プロレタリア独裁」が、「民主主義」をその尖端で捉え返すことだということが見えてくる。またそれによって、「プロレタリア独裁」から、余計な「神秘性」も「剥ぎ取」られる。
そのモデルが提示できるわけではないが、ウェス・アンダーソンの新作『犬ヶ島』はヒントを与えてくれるように思える。ラスト近く、12歳の孤児の少年「アタリ」(「12歳」という年齢は、もちろん『ムーンライズ・キングダム』はじめウェス作品において特権的な年齢であると同時に、マッカーサーの「日本人は12歳」を想起させる)が、犬と人間の戦争という「例外状況」において、舞台である「メガ粼市」の市長に急きょ君臨するとき、そこで起こっているのは「プロレタリア独裁」と言ってよいのではなかろうか。
犬の飽和状態を回避するために、犬を「犬ヶ島」へと排除する法案を掲げる前市長「小林」の、絵に描いたような生政治的ブルジョア独裁。もちろん、小林の市政は、きわめて民主主義的になされている(小林は、公平性を担保すべく、常に「反論」を要請する)。
そこにアタリは、排除されていた犬たち(「彼ら」は何でも多数決で民主主義的に決定する)とともに介入する。小林の民主主義的な「ブルジョア独裁」に、「反独裁の独裁」として介入するのだ(アタリのスピーチは、あくまで「議論に加わらない」ものとしてなされ、すなわち「独裁」的なものである)。しかも、小林はアタリの養父なのだから、「父殺し」でもある。本作が、日本の「近未来」ものであることを、少し「真面目に」考えてみようと思う。
(中島一夫)