ファントム・スレッド(ポール・トーマス・アンダーソン)

 オートクチュールの仕立て屋で完璧主義の職人「レイノルズ」(ダニエル・デイ=ルイス)が、後半、自らのハウスの従業員が他のハウスに黙って移っていったことを、姉のシリルから聞かされる場面。姉が「今はシックな服を好む人も多いから」と、「シック」という言葉を使ったことにレイノルズは激怒する。「「シック」などという言葉を最初に言った者は、何と不敬か!」。

 実際、「シック」は元来、しゃれた、あか抜けた、粋な、などを意味するフランス語の形容詞chicから来ている。背景には、フランス革命後の混乱を経て起こった、かつての華やかな宮廷貴族趣味への懐古が潜んでいると言われる。1830年代にこの意味で使われだしたようだ。

 1950年代ロンドンの職人レイノルズの研ぎ澄まされた感覚は、当時の「シック」とその流行に、フランス革命=王殺しの「不敬」を嗅ぎ取っていたと言えよう。そうした敏感さは、だが周囲の人間には、神経質で気難しいとしか映っていない。本作は、完全無欠の「王」である独身主義者レイノルズが、ある女性との出会いによって、徐々に崩れていく物語だ。理性が、その中心を失い、やがて崩壊の末に狂気の海に飲み込まれていくという、この監督おなじみの世界である。

 ふらっと立ち寄ったレストランのウェイトレス「アルマ」(ヴィッキー・クリープス)は、レイノルズにとって理想的な身体の持ち主だった。彼にとってドレス作りは、究極的には客のためではない。顧客が気に入るかどうかは「知ったことか!」だ。まずは職人として、自分が完璧だと考える作品を精魂込めて作り上げること。そこに、ドレスにぴったりの完璧な身体が現れたのだ。「ずっと君を待っていた気がする」。アルマは、レイノルズの仕事にとって、理想の「作品」を形成する最高の「道具」だった。

 だが、いったん「ドレス」を脱げば、アルマは採寸の「型」にはみ出る「自然」だ(採寸はアルマを「型」にはめる行為で、だからレイノルズはともにハウスを築きあげてきた姉のシリルと二人で彼女を採寸する)。登場シーンからして、彼女は勢い余ってレストランのフロアで躓くような、あか抜けないウェイトレスであった。ともに生活するうちに、その奔放な部分が自己主張を始める。とにかく仕事一途で普段心を乱されたくないレイノルズにとっては、ドレスを脱いだ彼女は、食事時にガサツに音を立て、最悪のタイミングで紅茶を運んでくるような「頭痛の種」だ。

一方、アルマにとってレイノルズは、嫌いだった自分の身体を完璧なドレスで輝かさせてくれ、「自分は正しい」という自信を与えてくれた存在だった(「胸はないが、胸は私が(服で)作ろう」)。アルマはレイノルズに恋することで、「人生の謎がなくなった」と言いきる。彼は私に、私は彼に、すべてを与えたと。問題は、仕事以外において、自分が雑音であり、頭痛の種でしかないような二人の関係性をどうにかすることだ。

 アルマが採った手段は、「私は強い」と言い放つ「王」の「無力化」を定期的にはかることだった。「自然」の女らしく野生の毒キノコを摘んで。ラスト近く、キッチンで毒キノコを、しかも彼の嫌いなバターで炒めるアルマを、眼鏡越しに見つめ続けるレイノルズは、すでにこれから起こることをすべて受け入れているようだ。

 一見、自分に辛く当たった罰を与えるかのようなアルマの復讐に見える。だが、母の面影や姉の統治を乗り越え、レイノルズに長年の独身主義者を捨てさせたアルマは、時折恐慌のごとくもたらされるこの「王」の無力化こそが、二人が仕事以外の時間をうまくやっていく唯一の術なのだと思い、またレイノルズもそれを理解していたとしたらどうだろう。

 「あなたには無力のまま倒れていてほしい」、「信じてほしい、死ぬことはない」。その言葉を聞き終わって、夫は口に含んでいた毒キノコを覚悟したように飲みこむ。

これから王の死と再生の儀式が始まる。今後、後戻りできない通俗化の道を余儀なくされる社会は、まさに「シック」という故郷喪失の感情にシック=病気のごとく覆われていくだろう。その中を、この旧態依然とした王が生き延びるには、これしかないのだ。

「倒れる前にキスしてほしい」。この時観客は、130分にわたって繰り広げられる二人の濃密な物語において、男と女が初めて熱烈にキスすることに気づき、思わず息をのむ。

中島一夫