ザ・スクエア 思いやりの聖域(リューベン・オストルンド)

 地面に正方形(スクエア)が描かれているだけのアート作品「ザ・スクエア」。

 ここでは誰もが平等の権利と義務をもつ。誰かがここで助けを求めたら、周囲の人間は誰もが助ける義務がある。傍観者であることが許されない「思いやりの」領域。映画は、この現代アートを手掛ける現代美術館のチーフキュレーター「クリスティアン」の身に起こるさまざまな出来事をテンポ良く追ってゆくが、ベースとなるのは、冒頭近くの広場(スクエア)で起こる出来事だ。

 大勢の人々が行き交う広場で「助けて!」という女性の叫び声が聞こえる。誰もが一瞬振り返りはするものの、クリスティアン含めて誰も足を止めない。明らかに、このシーンは、抽象的なアート作品「スクエア」を、具体的に現実化した場面だろう。それをスクリーンという「スクエア」の中に見ている観客にとっても、自らの日常や現実を想起せざるを得なくなる。このように、SOSを求める声に、群集が傍観者になってしまう現実があるからこそ、「ザ・スクエア」というアートが要請されるわけだ(もともと、監督らがスウェーデンノルウェーの何か所かで実践した、美術館のプロジェクトが発端だという)。

 だが、こうしたいわゆる「傍観者効果」なる心理学的観察に終わるなら、本作は大して興味を引くものではない。その広場の場面で、クリスティアンの携帯と財布が盗まれてしまうところから、作品は問題をはらんでくる。

 その後の展開は詳しく追わないが、どうやら犯人が貧困層の暮らす地域、クリスティアンのように、少々名前があり身なりも整えたアッパー層が、出来れば足を踏み入れたくない地域の人間であるらしいことが判明する。そこから、「スクエア」の意味が変更を余儀なくされるのだ。

 すなわち、「スクエア」という市民社会(広場)には外部があるということ。そしてそこには、「スクエア=平面」では捉え得ない下部構造という位相が否応なく存在するということ(何度となくクリスティアンは、らせん階段の底なしの底を、上から不安げに見下ろす)。思えば、冒頭近くから、舞台であるスウェーデンの街に、その福祉社会のイメージを覆すように、物乞いをする貧困者たちが至る所で助けを求めていたではないか。その物乞いの声は、まるでそれも街の景色や雑音の一部であるというように、あらかじめ市民の「スクエア」からは排除されているのである。広場を行きかう人々は、彼らに対して「傍観者」ですらないのだ。

 スウェーデンにもゲーテッドコミュニティが登場し、この監督もたびたびその存在に言及しているが、「スクエア」は、都市の市民社会に潜在する無意識の「ゲーテッドコミュニティ」ともいえる。「スクエア」内はセキュリティで守られているので、普段は外部(他者)を見なくて済む。まるでクリスティアンのマンションの外にあるゴミ集積所だ。よほどの必要に迫られないかぎり、住民がその高い仕切りをまたいでゴミに塗れるようなことはない(その後クリスティアンにはその「必要」が生じるわけだが)。

 だがふとした瞬間に、「スクエア=ゲーテッドコミュニティ」の内側に、外部の他者が侵入してくる。セキュリティは破られるのだ。映画では、「猿人」や「神経症」の男など、普段は初めから「排除」されている他者が、「スクエア」に入り込んでくる場面がたびたび出て来るが、それらはすべて、今回クリスティアンの身に起こる出来事のバリエーションである。最初、クリスティアンはじめ、「スクエア」内の人々は、他者たちを、そしてその「声」を無視してやりすごそうとするが、やがてその「声」は「スクエア」内の現実を変容させずにおかない。その時、「スクエア」の人々は、その「声」に応えるべく何らかの行動を迫られるだろう。

 こうして、「ザ・スクエア」というアートは、むしろ現実世界にはもはや「スクエア」の境界が存在しないことを暴露する。その時、それは、逆説的にも世界に残された最後の「聖域」のごとく映るに違いない。誰もが平等の権利と義務を思考し得るのは、「そこ」からだろう。

中島一夫