1987、ある闘いの真実(チャン・ジュナン)

 韓国の民主化の映画を見ると、ある種の羨望を覚えずにいられない。冷戦の崩壊は、さまざまな意味でわれわれから「未来」を奪った。だが、まだここでは冷戦が終わっていないのだ。

 それが「幻想」であることもよく分かっている。それは、実質的にはとうに「崩壊」しており、今やあの二人の「ロケットマン」の手によるイベント化された「終焉」を待つばかりだ(実際、先日の南北会談で朝鮮戦争の「事実上の終戦宣言」がなされた)。それは、何と言う「冗談」だろう。またしても、フェイクニュースに終わるかもしれないことも含めて。

 だが、韓国が、いよいよ実際に到来するかもしれぬ冷戦終焉を前にして、まさに30年前に冷戦を終わらせ損なった1987年を再び三度見つめ直し、今度こそ未完の民主化を成し遂げようとしていることは決して「冗談」とは言えない。本作が、同じく光州事件を扱った『タクシー運転手』ともども韓国で大ヒットしたことがそのことを告げている。その熱狂は、現在も持続する民主化運動=ロウソク集会の炎を絶やさんとする、現実政治を動かそうとする熱と一体のものである。ここでは、「芸術」と「実生活=政治」とが分裂していない。

 内容については細かく触れない。一見、例によってこの国特有の「民主か独裁か」の「闘い」の記録に見える。だが、興味深かったのは独裁=軍事政権側が決して一枚岩ではないことだ。「独裁」は、いつでも風向きが変われば、都合の悪い部分を「トカゲの尻尾切り」できるよう、複数の「班=組」に分裂しつつ共存しているのである(「パク所長」(キム・コンソク)と対抗勢力の「所長」のマウント合戦)。これは、1987年時点で、もはや大きな「民主」化の流れが避けられない中、いかに全斗煥の軍事政権を守っていくかという「独裁」側の「知恵」であり「悪あがき」だろう。

 本作には、新聞や教会はもちろん、イ・ハニョルが興じるマンガや、ヨニのウォークマンから聴こえる音楽(ポップス)といった、広義の民主化を象徴する「メディア」が多数登場する。もちろん、本作が主題化するように、民主化運動の学生の拷問死は語り継がれなければならない「闘いの真実」だ。だが、もはや時代はさまざまなメディアを介して、「独裁」側による拷問を隠しきれなくなっていることも、また「真実」なのだ。本作では、ハニョルとヨニの白いスニーカーが、デモの中を駆け抜けていく様子が、民主化の象徴として印象的に描かれているが、今まさに民主化は国中を走るように広がっている(そう言えば、同じく「民主化」を背景としたポンジュノの出世作殺人の追憶』(2003年)でも、警察に拷問された村の男のスニーカーが印象深く映し出されていた)。

 ジジェクは、冷戦終焉の際、「なぜ西側諸国はかくも東欧での〈共産主義〉の解体に魅了されてしまったのか?」という問いにこう答えている。そのとき西側は、自らの民主主義が腐敗と危機に埋没してしまっているので、「東欧においては、あたかもそうした民主主義が初々しさと革新性を身に纏って再発見されているように見えるのだ」と(『否定的なもののもとへの滞留』)。

というのも、東欧に西側が求めるものとは、自らの失われた起源であり、「民主主義の発明」という失われた起源の経験なのであるから。いいかえるなら、西側にとって東欧は〈自我理想(Ich-Ideal)〉として機能しているのである。それは、西側が自分自身を愛するに値するものとして、自らの理想化された姿を見つめる視点である。それゆえ、西側が魅せられている実際の対象とは、まなざし、すなわち彼らが素朴であると思い込んでいるまなざしなのである。

 「独裁」側の「所長」らは「対共」を謳っているが、「民主化」がイコール「共産主義化」であるとは、もはや「独裁」側も「民主」側も信じていないだろう(もし、そう信じられていたとしたら、果たしてそれでも「民主」側は「民主化」を推し進めようとするだろうか…)。「北」と民族統一することこそが、その初期から軍事政権が日米と結託することでねじ曲げ、腐敗させてきた韓国の民主化を、あるべき「理想化された姿」に「再発明」し取り戻す道である。ハニョルとヨニの「白い」シューズは、その「素朴」な「初々しさ」を持った「自我理想」への「まなざし」を表していよう。冒頭で述べた今作への「羨望」も、そうした「まなざし」に魅せられているということなのかもしれない。

中島一夫