ザ・ファイター(デヴィッド・O・ラッセル)

 愛は惜しみなく奪う――。これは、隠れた傑作である。

 もちろん、兄役のクリスチャン・ベールと母役のメリッサ・レオが、アカデミーとゴールデン・グローブの助演賞をW受賞しているのだから、「隠れた」も何もないが、テーマや画ではなく、丹念な人間ドラマとそれを裏切らない俳優たちの演技で、こんなにぐいぐい見せていく作品も久々ではないか。

 あの『ダークナイト』から一転、大幅な減量に加えて、髪は抜くわ歯は入れかえるわのクリスチャン・ベールの怪演もさることながら、4年半のトレーニングで完璧に体を作りあげ、鉄棒で腰をひねりながらの腹筋も軽々とこなす弟役のマーク・ウォールバーグのプロ根性もさすがである。

 二人が異父兄弟のボクサーを演じる。兄のディッキーは、かつての絶対王者シュガー・レイ・レナードからダウンを奪った男として、貧しい労働者の街、マサチューセッツ州ローウェルの誇りだった(街への視線は、『ザ・タウン』や『ゴーン・ベイビー・ゴーン』のベン・アフレックにちょっと似ている)。

 だが今は、過去の栄光にしがみつくあまり薬物中毒に陥っている。「主演映画を」とオファーされ、街をねり歩きながらカメラに追われる毎日だが、実はそれは、薬物の怖さを訴えるTVのドキュメンタリーだ。街の誇りから街の恥へ。彼は、監獄の中でそのことを思い知る。

 一方、兄の影響でボクシングを始めた弟ミッキー。そろそろ頭角を現さないとヤバい年令ながら、何せ仲間とヤクをやって平気でトレーニングに遅れる兄をトレーナーに迎えているために、練習もままならず目下連敗中。そして、滑稽に描かれるまったく自立の意志のない姉妹7人と、マネージャー役の過保護の母が、ミッキーを取り囲んでいる。そんな彼の環境は、大学を中退し今はバーで働く女性シャーリーン(エイミー・アダムス)が現れることで変化しはじめる。

 その後のストーリー展開は、もちろん予想通りだ。だが、この作品の魅力は、実話に基づいたその手のサクセス・ストーリーだけにあるのではない。

 家族愛、兄弟愛、親子愛、恋愛、……。この作品にはさまざまな愛の形が示されるが、それぞれが「愛」であるゆえに、かえってミッキーを苦しめていく。特に母と兄の愛は、明らかにミッキーの人生と夢とを所有し、それに依存しているが、母や兄はそれが息子への、また弟への当たり前の愛だと思い込みそれに気付かない。救いがないのは、他ならぬミッキー自身が、そう思い込んでいることだ。

 愛による絆や連帯は、時に人を不自由に息苦しくする。だが、それは「愛」という言葉で言われてしまうやいなや、途端にそれを疑うことや拒絶することが難しくなる。ましてや、街の片隅に生きる決して裕福ではない大家族が、そうであるがゆえに、兄弟のファイトマネーを当てにするようにべたーっと身を寄せ合いながら生きている。果たしてそれが、家族愛や兄弟愛などではなく、お互いに依存し寄生し合っているだけだと言い切れるだろうか。もちろん、その渦中にあるミッキーにはとてもできないのだ。

 冒頭から、汗びっしょりで道路整備に精を出す弟に、ちょっかいを出しては邪魔ばかりし、最後には自分のペースに引き込む兄。観客は、こうしてこの二人が「兄弟愛」という名のもとに、ずっとこの関係性を引きずってきたことを一瞬にして感じとる。

 恋人シャーリーンは、ミッキーを家族から切断し解放しようとする。母や姉妹たちと髪を引っ張り合うキャットファイトを演じる彼女は確かに勇敢だが、兄ディッキーと罵倒し合いながらも何とか和解していく感動的なシーンで、彼女自身の姿を鋭く指摘されてしまう。果たせなかった世界チャンプの夢を弟に託す兄同様、彼女もまたミッキーとの関係に自分の人生を変えることを賭けているのだ。ここにも愛の裏面が顔をのぞかせる。

 それぞれが自分を変えようともがきあい、愛という名のもとにもたれあい、また支えあっている。この作品においては、誰ひとりこの「愛」の磁場に対して超越的なポジションを取ることができない。その都度戦いあうほかはないのだ。それぞれの関係性を丹念に描くことで、その磁場が浮き彫りにされていく。リング上で戦う者だけに戦いがあるわけではない。「ザ・ファイター」というタイトルは、そのことを示している。

中島一夫