きっとここが帰る場所(パオロ・ソレンティーノ)

 何とも不思議な作品だ。
 物語も人物の描かれ方も今ひとつなのに、妙に癖になる面白さだ。この監督には、構図といいつなぎ方といい独特の映像感覚がある。ショーン・ペンがほれ込んだのも分かる。彼の演じる主人公シャイアンの決めゼリフではないが、「何かヘンだ。「これ」とは言えないけど」といった感じだ。

 人気ミュージシャンだったシャイアンは、ある出来事がきっかけで、今はダブリンの豪邸に妻と犬との隠居生活。かつては、「暗い若者たちに向けて暗い歌を歌い」、商業的にも成功していたが、彼の歌の影響で10代の兄弟が自殺。それ以来、毎週のように彼らの墓参りをしているものの、罪悪感は増す一方だ。

 特に仕事もせず、適当に株をやりながら、近所のロック少女メアリー(U2ボノの娘イヴ・ヒューストン)とショッピングモールのカフェでまったり過ごす日々。彼女も兄が失踪中で、互いに寂しさを紛らわし合う仲だ。二人のいでたちは、親子に間違われるほどそっくりでもある。

 シャイアンは、我が家のことを何も知らない。なぜ、飼っている犬の頭にカバーが着けられているのか、庭のプールにいつも水が入っていないのはどうしてか。いつも妻と対戦する「素手」スカッシュでも、妻が「男をたてるため」にシャイアンを勝たせてくれていたことにも気づかない。そんなシャイアンに知らしめるように、妻は建築家に頼んでキッチンに「キッチン」とプレートを掲げさせる始末だ。シャイアンは消防士としてビルの上で働く妻を、まぶしそうに見上げるばかり。彼の心は、庭のプールのように空っぽで、空虚のあまり軽いうつ状態にある。

 そんなシャイアンのもとに、30年間絶縁状態にあった父の危篤が知らされる。以降、物語は大きく動きはじめ、作品もロードムービー的、かつサスペンスタッチに転じるのだが、まさに「大きな物語」への回帰かとばかりに、その後の展開には正直唖然とさせられる。それについては触れずにおこう。ただ、最初に述べたように、それでもなお引きつけるものが、不思議とこの作品にはあるのだ。

 忘れがたいシーンがいくつもある。この作品を見た誰もが口にするように、元トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンのライヴシーンは、撮り方や仕掛けも含めて鳥肌ものだ。バーで出会った「タトゥーはアートだ」という男に、シャイアンが「知ってる? 今は皆仕事をやめてアーティストやってる」と認知労働批判!をクールに繰り出すシーンにも、思わずにやりとさせられる。その他、はじめてカートに台車を付けた元パイロット、若者とのピンポン、そして言うまでもなくあの雪原の光景…。

 とりわけ印象的なのは、先ほどのライヴシーンで演じられる(そして映画の原題にもなっている)“This Must Be The Place”を、今度はショーン・ペンが、アコギ一本で奏でてみせるシーンだろう。

 シャイアンは、父の遺志に従い、追跡することになった男の孫娘レイチェルの家で一夜を過ごす。

 レイチェルの息子トミーにせがまれ、彼の歌に合わせてギターで伴奏するシャイアン。傍らにはトミーの父の写真が。まるでシャイアンが、写真の父に成り代わり、息子と一緒に歌っているかのようだ。「親子」の共演に涙するレイチェル。このとき、シャイアンもまた、自分に子供がいないことが、自らをして父に嫌われていたと思い込ませてきたのだということに気づき、やはり涙するのだ。「息子を嫌う父親などいるはずがないじゃないか!」

 ふいに、シャイアンの空虚な心は何かで満たされはじめる。それを明かすように、トミーの水恐怖症を克服するために新しく設えたプールには、並々と水が注ぎ込まれるだろう。

 父を追って、子を思う「父=親」を知る旅。だとすれば、旅を終えた後に訪れる、謎に満ちたラストシーンも自ずと見えてくる。

 旅から戻ったシャイアンは、メアリーの母の窓の下に現れる。彼女は、メアリーの兄である失踪した息子の帰りを、来る日も来る日も、ずっと窓辺でタバコを吸いながら待っている。

 思えば、旅に出る前、二人の間にはこんなやり取りがあった。やはりタバコを吸いながら、息子の不在に茫然としている彼女に、シャイアンが「悪いことは全部やったのに、タバコだけはやらなかった。なぜだろう」と声をかける。すると、彼女は「それは、あなたが子供だからよ」とにべもなく言い返したのだ。

 旅を終えたシャイアンは、空港で見知らぬ男にもらいタバコをし、苦手な飛行機で戻ってきた(行きは飛行機を避けて船で行った結果、父の死に間に合わなかった)。一瞬、息子が戻ってきたと思った彼女の顔がぱっと明るくなる。

 だが、どうも違うと見るや途端に表情が曇り、その後再び少しずつ笑顔を取り戻す。そこには、あの前髪を息でふっと吹きあげるしぐさに幼さの残るシャイアンではなく、化粧を落とし髪もさっぱりと、すっかり大人っぽくなったシャイアンの見違える姿があった。

 おそらく、このラストシーンは解釈が分かれるところだろう。

 ①帰ってきたのは本当に息子だった。
  ――ショーン・ペンが二役になってしまうし、そもそもシャイアンの旅の意味がまったくなくなるので、この解釈には無理があろう。

 ②シャイアンも息子の一人だった。
  ――すると、メアリーと兄妹ということになり、二人のいでたちが似ていることも符合する。だが、そうすると、シャイアンが、自殺した兄弟の墓参りのためにダブリンに移り住んでいることの説明がつかない。メアリー親子も一緒に移り住んでいると考えるのは、やはり無理がないか。

 ③シャイアンは、彼女の「息子」、メアリーの「兄」として生きて行くことを選択した。
  ――述べてきたように、旅を終えたシャイアンは「親子」に目覚めた。実際、追跡していた男が住んでいたとみられる部屋で、シャイアンはワインを口から滴らせながら、戻ってきた自分?に妻がかけ寄ってくるシーンと、メアリーが寂しさにうずくまるシーンとを思い浮かべる。この連続する想起を、ダブリンに戻ってからシャイアンに待ちうけている場面の「二者択一」と捉えれば、結局彼は後者を選択したのだと取れなくもないが…。


 いずれにしても、窓の上と下とで交わし合う二人の笑顔は、ダブリンの抜けるような空のようだ。このとき、二人はお互いに悟り合ったのだろう。一本のタバコを分かちあうように、子を思う親の立場を、今なら共有できるということを。

 遅すぎる成長物語? だが、きっとここが、息子のような年ごろの兄弟を死なせてしまったシャイアンが、帰るようにたどり着いた「場所」だったことだけは間違いないだろう。

中島一夫