シリアスマン(コーエン兄弟)

  あなたを否認した時代に/ただひとつ 啓示の光がさしこむ。
  あなたの虚無だけが/あなたから 時代が受けとることをゆるされた経験なのだ。(中略)
  おわりのない審級で/われわれがそうであるところのものがうつしだされる。
  だれも全体のなかでの道を知らず、/部分は どれもわれらを盲にする。
(ゲルショム・ショーレム


 コーエン兄弟のベストといえば、迷わず『ノーカントリー』を挙げるが、もし「最もコーエン兄弟らしい作品は」と聞かれれば、これからは『シリアスマン』と答えることにしよう。

 一言でいえば「否定神学的」なコーエン兄弟一連の作品のなかで、何せこの作品は、そのものずばりユダヤ教否定神学をテーマとしている。ましてや、舞台が60年代のユダヤ人コミュニティーという、彼ら自身の出自をうかがわせる場所なのだからなおさらだ。

 本作はだいたい、「真面目で平凡なユダヤ人に次々と災難がふりかかる話」と紹介されるが、そう捉えてしまえば、この作品の核心を外すことになる。まるで逆なのだ。これは、次々にふりかかる災難を避けようと、「真面目になろう」とする男ラリーが、だが決して真面目な男=シリアスマンになりきれない話なのである(彼は、ラビ相手に「真面目になりたいんだ!」と叫んでいたではないか)。

 冒頭から、メシアかもしれない老人を、すでに三年前に死んだ者の「悪霊」として家から追い払う東欧の夫婦の挿話が描かれる。まるでユダヤ教のラビによって語り継がれるハガダー(伝承)のようだ。そして、いきなり暗転、現代へ。

 ヘブライ語の教室。秘かにイヤホンでラジオを聞いている少年の耳がアップになり、イヤホンのコードをたどるように徐々にカメラを引きながら、教室の全景が映し出される。信仰心も薄れ、世俗化したユダヤの少年が、もはや経典に耳を傾けなくなっている姿が、冒頭数分で手際よく示されていく。家に帰れば、少年はTVの映りばかり気にし、アンテナ調節を父に要求するTVっ子であり、律法(トーラー)もレコードという複製技術で、まるでポップミュージックを聴くように聴く始末だ。

 少年の父ラリーは、物理学を教える大学教授で、大教室で「シュレーディンガーの猫」や「不確定性原理」について熱弁をふるうが、まさにそこで説かれる不条理なパラドックスさながら、その後彼を次々と不条理なトラブルが襲う。学生の評価に対するクレームと賄賂事件、隣人との敷地境界トラブル、同居人の伯父はギャンブルで逮捕、妻からは一方的に離婚を要請される…。

 ラリーにふりかかる災厄とは、基本的にコミュニケーションの不条理によるものだ。常にラリーの側に正統性があるにもかかわらず、その都度、彼はやり取りの中でどもりまくり、不条理で不当な結果を招いてしまう。

 夢の中で、妻の愛人が教室に現れ(このときすでに愛人は事故死しており、その葬式を自分が行なわねばならない不条理に彼は見舞われている)、二人で議論するシーンからも明らかだが、ラリーにふりかかる災厄=不条理とは、黒板にら列される数式の「外=他者」にあり、すなわちマルティン・ブーバー的にいえば、「我―それ」ではなく「我―汝」の関係性の渦中にあるのだ。

 ブーバーは、イエス・キリストの登場を、メシアイズムの発端として退け、あくまで「我―汝」という神との対話可能性に、ユダヤ教の真髄、ハシディズムの本質を見た。ブーバーから見れば、旧約聖書は神と人間との対話の集積であり、アダムの楽園喪失やヨブの災厄なども、神と人間との対話の渦中にあるという意味で、絶対的で終末論的な災厄などではなく、いわば誰にでも起こり得るレベルの不条理にほかならない。

 ラリーは、救いを求めようと、次々にラビを訪れるが、その都度「我―汝」のコミカルな対話の果てに、梯子を外されたように途方に暮れてしまう。だが、すでに、冒頭でメシアは追い出されている。ラビとの対話は、救いどころか、より大きな謎と困惑を彼にもたらすほかはない。

 だが、このラビを媒介とした神(汝)との対話におけるすれ違いは、今自分にふりかかっている災厄と本質的には同じものなのだ。「シリアスマン」(敬虔な人)になりきれないラリーには、ついにこのことが分からない。

 ラビと対話をしているという時点で、神(汝)との対話は可能になっている。同時に神が他者=汝である以上、常にその対話は不可能で不条理に満ちたものとなる。ここでは、不可能性自体が可能性であり、救いがないことが救いなのだ。

 にもかかわらず、とうとう現実に屈服したラリー(彼は決して「誘惑」に屈服したわけでない。これ以上対話しなければならないという現実そのものに、彼は耐えられなかったのだ)は、ついに賄賂を渡した学生の評価を変更してしまう。ラストシーンの竜巻を、この「シリアス」になりきれなかった男は、どこかの知事同様、やはり終末論的に、自らの行為に対する「天罰」だと見なすのだろうか。

中島一夫