物語る私たち(サラ・ポーリー)

 子は親より先に生まれることはできない。
 子にとって、だから「親子」とは、いつでも親の語る「物語」である。親子は、その「親子=物語」を演じ続ける共演者であり、やがてそれが物語であり演技であることを忘却していく共犯者なのだ。

 だから、ひとたび親子とは、家族とは、と改めて問い直し、対象化し始めると、途端にそれは物語であることを暴露する。本作は、サラ・ポーリーが、11歳の時にガンで亡くした女優であった母の人生を、父や家族、また生前親しかった人々にカメラを向け、インタビューしながら探っていくという作品である。だが、その「母とは誰か」の探求は、思わぬ形で「父とは誰か」へと迷い込んでしまうことになる。

 と言っても、これは一見そう見えるような、DNA鑑定によって父は父でなかった、本当の父は別にいた、親子、家族でこの困難を何とか乗り越えていこうという、『そして父になる』的な話ではない。この監督は、親子や家族が物語であり、演じられるものだということなどわかりきっている。何せ、父も母も生物学上の父も、皆演じ手なのだ。

 むしろ、この作品の面白さは、それを決して隠さないところにあろう。例えば、父へのインタビュー映像を、父にスタジオに入ってもらい、まるで台本を読ませるように撮っている。父が「セリフ」をかんだり間違ったりすると、ガラス越しに「もう一度!」とやり直しさせるのだ。兄弟へのインタビュー映像も、あからさまに巧みな編集が施されている。

 時折挿入される、8ミリ好きの父が撮りためていた母の映像も、日常的な母の姿というよりも、彼女がエネルギッシュなオーラを放つ一人の女優であることを強調するばかりだ。そんな母のことだから、父に惚れたのも舞台上の役に対してだったし、父がいながら別の男=生みの父と関係をもったのも、自ら主演女優を務める芝居の巡業の最中だった。こうなると、自らの人生の、何が真実で何がフィクションかと問うても始まらないだろう。

 この作品においては、あらかじめ「真実」と「フィクション」の区別は無効化されている。オチになるので具体的な言及は避けるが、あのラストシーンは、本作自体が、これがドキュメンタリーかフィクションかにまるで興味がないことを示していよう。

 では、本作は何を撮ろうとしたのか。おそらく、それは物語を「語る」という行為そのものではなかったか。金井美恵子が卓抜なエッセイ「絢爛の椅子」に言うように、深沢七郎『絢爛の椅子』において震撼させられるのは、主人公「敬夫」が人を殺したことそのものよりも、彼の犯罪が「自白=語り」を通してしか存在しないこと、すなわち語る者のために用意された、あの「絢爛の椅子」に座ることによって、彼ははじめて犯罪者になるという事実だ。

 敬夫は、「椅子」に座るや否や語らされてしまうが、かといって「椅子」に座らないこともできない。まるで、彼の犯罪は、語られるために行われたかのようなのだ。

 同様に、本作の父も兄弟も、カメラの前の「椅子」に座った途端、母や家族の「物語」を語らされてしまう。親子や家族が物語である以上、それは語られることによって存在するのであり、したがって語ることを避けることはできない。敬夫にとって、犯罪が語られることによってはじめて存在するのと同じだ。

 今回、サラ・ポーリーが目論んだのは、父や兄弟に「絢爛の椅子」を用意することではなかったか。彼らの語る物語が、細部においてお互いに矛盾しあっていることなど、監督にとっては自明のことだったろう。にもかかわらず、「椅子」に座らせること。父が娘を「サディスティックなインタビュアー」と言うのは、そのことを突いている。

 父をプールに沈めようとする演出も、余興でも何でもない。服を着ている父が沈むのは容易ではない。だが、監督は無理やり沈めようとする。それは、金井が『絢爛の椅子』に見出した、あの語ることも語らないこともできないという、「語り」における本質的な不可能性以外の何ものでもない。

 この作品を、父と娘の愛の話に還元することなどできない。生みの父に向けていたカメラを、ふいにこちらに向けてくるサラ・ポーリーは、何とサディスティックなことか。

中島一夫