ディストラクションベイビーズ(真利子哲也)

 「イミフ」(意味不明)という声と、絶賛する声(特に俳優の怪演)とに二分されているようだ。

 ストーリーらしきストーリーはほとんどない。全編、ひたすら喧嘩しまくるだけ、よく企画が通ったと思わせる問題作である。

 『イエローキッド』や習作の頃からこの監督の秘められたディストラクション(破壊)への傾斜には注目してきた

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が、この新作でそれが一気に噴き出した印象だ。まるで上田秋成のような、あるいはサドのようなピカレスクロマンである。

 愛媛県松山市の造船所が立ち並ぶ港町・三津浜。芦原泰良(柳楽優弥)と将太(村上虹郎)の兄弟は、造船所のプレハブに二人きりで暮らしている。兄の泰良は喧嘩に明け暮れ、弟の将太はいつも内に何かを抱えている様子だ。同じく松山の作家、大江健三郎の『万延元年のフットボール』を反転させたような兄弟構成だ。

 冒頭、弟は対岸にいる兄が、多勢に無勢のなか喧嘩しているのを目にし駆けつけるが、いつのまにか兄は姿をくらませてしまう。それ以降、ずっと弟は兄を探し続けることになる。ニアミスを繰り返しながら、いつも弟は兄に一歩遅れてしまう。兄は、手に届かない存在であるかのようだ。

 いや、兄・泰良は、松山の街全体にとって得体の知れない存在である。彼はふいに松山の中心街に現れ、自分より体の大きく強そうな相手を見つけては、次々に喧嘩をしかけていく。その行動の「意味」はついに分からない。

 かといって、彼はダークヒーローではない。彼よりも喧嘩の強い者はいくらでもおり、実際、彼の方が殴られて動けなくなることもたびたびだ。だが、そういう相手も、意味もなく食い下がり続けてくるその「非意味」(ノンセンス)に、根負けして屈していくのである。

 そして、これこそが悪漢小説の主人公のあり方だろう。中上健次は言う。

悪漢小説への入口はどこでもころがっている。或る日或る時、現代の青年Aは、街で人にぶつかる。相手は当然Aが不注意でぶつかったのであやまるだろうと思った。Aはあやまらない。それで相手は激怒した。威勢のいい相手だったら殴りかかってもくるだろう。普段われわれはこのあたりで、市民生活を営む者の常として双方、うまく自分の気持ちをなだめるのだが、「それ何事かは」と思っているAだから、相手を小突きもする。警察が出て来ても、「それ何事かは」という態度は変わらない。警察をAが小突いたとする。警察官が殴り返し公務執行妨害で逮捕しようとしたとする。Aは「それ何事かは」と警察と取っ組み合いになる。このままAが「それ何事かは」を言いつづけ、行動をしつづけると、どうなるだろう?(「物語の系譜 上田秋成」)

 泰良の行動原理も「それ何事かは」(それが何だというのだ)に尽きている。強烈な自己肯定の衝動であり、法・制度に抵触、侵犯する主人公の行動のダイナミズムである。タイトルの「ベイビーズ」(曲名から来ているようだ)は、まさに中上が言うように「法・制度上において表れた悪がもし悪として貫徹されるならばそれは実に幼児的な意匠をまとってあらわれる」ことを示していよう。すなわち、「法・制度上において悪は善の前期的状態であり、悪とは法・制度への慎しさを欠いた事にすぎない」。泰良の行動を単に「悪」と見なす視線は、すでに法・制度に馴致され成熟した、「大人」のそれなのだ。

 それを市民社会の視線と言い換えることもできよう。それは作中、彼の暴力を、許可なくスマホで撮影し、これまた断りもなくネット上にアップし、あっという間に拡散、炎上させていく、懲罰感情に突き動かされた不特定多数の群れとして先鋭化する。映画は、泰良と市民社会の、どちらが暴力的か、とでも言いたげだ。

 スマホを持って、「すげえよ、アンタ。俺と面白いことやろうぜ!」と泰良に近づいてくる高校生「裕也」(菅田将暉)は、そうした市民社会の一人だった。だが彼は、泰良とともにあり、彼の上着を着る(笠に着る)ことで増長する。調子に乗って女子高生らにふるう暴力は、だが超人願望や承認欲望にすぎず、背後に「意味」や「理由」があるぶん、泰良のような強度も持続力も持たない。法・制度に抵触するや否や、彼はたちまち脱兎のごとく逃亡をはかろうとし、その情けないありさまを、自らが暴力をふるったキャバ嬢の「那奈」(小松菜奈)に「キモいんだよ!」とののしられるのがオチだろう。

 市民社会は、「万人の万人に対する戦争」(ホッブズ)を体現するような泰良=暴力を、法制度で抑圧したところに成り立っている。だが、それが露呈したらどうなるか。

 繰り返し注意しておくべきは、泰良が決して「誰でもよかった」と嘯きながら、道具を使って人を殺すような卑劣な男ではないということだ。その卑劣さには、「誰でもよかった」という「理由」と、道具を使って自分の身は守りながら他人を殺めたいという、小心な「意味」とがつきまとっている。

 もちろん、だからといって、泰良の行動を肯定することなどできまい。それは、肯定することも否定することもできない、カントなら「非社交的社交性」とでも言うだろう領域にある。実際、泰良は、相手を殺そうとは思っていない。それどころか、それが自己流の社交だとばかりに、「まだイケルだろ?まだイケルだろ?」と相手の反撃力=社交性を確かめながら殴り続ける。

 作品は、暴力の「出所」を、この港町で毎年のように行われる(祝)祭に見出し、その伝統に暴力の「意味」や「理由」を押し込めようとしているようにみえる。だが、目深にパーカーをかぶった匿名の「それ」は、「それ何事かは」と、海の向こうから何度でもやってくる気配を漂わせているのだ。

 中上は、自らの故郷について「熊野は人を過激にさせる」、「熊野はもの狂おしい」と言った。今作が見出した松山は、漱石から大江まで、日本近代文学の「風景」としてあった「松山」を、ある部分において継承しつつも(『坊っちゃん』の暴力!)、ある部分では徹底的にディストラクションしている。実際それは、中上の熊野にずっと近いと感じた。

中島一夫