北朝鮮強制収容所に生まれて(マルク・ヴィーゼ)

 模範的な「囚人」同士を、最高の栄誉として結婚させる、いわゆる「表彰結婚」の両親から生まれたシン・ドンヒョク。彼は、生まれながらの政治犯として、外の世界を知らないまま育った。そこでは夫婦になるといっても、共に生活することなど許されない。だから、両親の愛も知らない。

 彼は、脱走を図っていた母と兄を密告する。だが、彼自身も脱走を企てたとして、誤って(だが本当にそうか)拷問を受けてしまう。彼は、重い口を開いて、ひじが曲がってしまった腕を見せながら拷問の記憶を語る。インタビュー映像の中で、唯一彼が感情をあらわにした場面だ。だが、それもすぐに影をひそめる。襲いくる疲労の中で、彼はあらゆる感情を諦めてしまったように見える。

 だが、ここで声を大にして言わねばならない。この作品は、北朝鮮の非人道性――いまだに収容所が存在し、など20万人以上収容されているという――を告発するのみのドキュメンタリーではない。

 急いで付け加えれば、もし、ラスト10分がなければ、そう見なしてもよいだろう。チラシに読まれる鈴木邦男(「収容所は肉体と心を破壊し、さらに〈新しい心〉を据えつける。だから人間的感情もなくなる」)や、佐高信(「拉致問題北朝鮮を批判しながら、安倍政権は日本の北朝鮮化をねらっている」)のコメントなども、基本的に北朝鮮の非人道性という「固定観念」にしたがっている。

 だが、ラスト10分は、この種の固定観念を覆すものだ。前兆はあった。母と兄を告発したドンヒョクは、父とともに、二人の公開処刑を最前列で見させられる。母は絞首刑、兄は銃殺刑。だが、観客は、このときの彼の言葉に戦慄を覚えずにいられない。「罪を犯したのだから、死ぬのは当然だと思った。家族を密告しろとは教育されていたが、母が処刑されたら涙を流せとは教育されてはいなかった。悲しいどころか、彼らのせいで、自分も拷問を受けたことに怒りを覚えた」。

 人は、彼が非人道的な国の収容所で拷問を受けたことで、家族を思う人間らしい感情を喪失してしまったのだと己を納得させようとする。あるいは、哀れにも彼は両親の愛を知らずに育ってしまったのだと。だが、それはまったく違うだろう。収容所の外を知らない彼にとっては、当たり前のように「正義」は家族より重いのだ。

 彼は脱北後、韓国で暮らしながら、「LiNK」(北朝鮮に自由を)という団体に所属し、世界中の若者とともに活動している。だが、明らかにこのフィルムのウェイトは、ラスト10分で、集団を離れた彼が、一人地下鉄で寂しそうに物思いにふけるシーンの方にある。

 そこで彼は、脱走して収容所の外から見た北朝鮮という国が、いかに美しく、天国のように見えたかを語るのだ。彼が見た平壌の市場は、活気と笑顔に満ちていた。だが、韓国に入ると、かえってそれが消えていく。「韓国では何もかもが手に入るが、皆金に振り回されて世の中を恨んでいる。収容所は過酷極まりなかったが、金に困ることはなかった、そこではすべてが純粋だった」。

 かつて北朝鮮は、清貧のユートピアと考えられていた。金正日が日本人の拉致を認め、実際に何人かが帰国して以降、それは完全にイデオロギーと化したかのように見える。だが、そのとき子供を戻された拉致家族の一人が、はからずも「かえってあの国で育ってよかった」ともらしてしまったように、その「清く貧しく美しい」という国家像は、いまだにイデオロギーと言いきれない余地を示してはいないか。このドンヒョクの言葉は、それを明かしていよう。

 彼は、イデオロギーに毒されたドクサでそう語っているのではない。むしろ、そこから脱却した韓国における生活の中で、また世界中を講演で飛び回ってきた、その実感から語っているのだ。この部分を見ないで済ませるならば、この作品を見たことにはならないだろう。

 フィルムを通して疲れている彼の「疲労」は、現在の資本主義の生活から来ているのではない、と言い切ることができるだろうか。「LiNK」の若者たちに囲まれながらも、彼の様子は明らかに周囲と温度差がある。

 収容所に生まれ育った彼は、確かに「北朝鮮に自由を」とは思ってはいるだろうが、果たして北朝鮮「から」の自由をのぞんでいるだろうか。むしろ、終始どこか身の置き所がないような所作は、いまだに彼の脳裏から、あの収容所の外から見た「天国」が離れないように見える。

中島一夫