ねこにみかん(戸田彬弘)

 この家には、「チチ」と呼ばれる父一人と、「ハハ」「カカ」「ママ」と呼ばれる母三人がいる。
 そして、その父と三人の母の間には、それぞれ17歳になる子供が一人ずつおり、さらに彼らの誰とも血がつながっていない養子(28歳)が一人いる。

 こう書けば、これはいかにもつくりものめいた、一夫多妻の家族の物語に聞こえるかもしれない。だが、そのように捉えてしまえば、本作の試みの意義は半減するだろう。

 この作品は、現在少しずつ広がりを見せている、いわゆる「映画で町おこし」というクラウドファンディングの方法で制作されている。和歌山の有田を舞台に、資金支援をはじめ物、場所、技術、労働の提供から企画、発信に至るまで、町中がサポーターとして参加する形で映画作りを行っていくのである。最終的には、358名の個人サポーターと58の企業団体から、914万円の寄付が制作資金として集まったという。

 関わった人々が口々に印象に残ったと述べているのが、50名近いスタッフや役者たちが一堂に会して行った、二週間の合宿だ。携帯電話もつながりにくい山奥で、だが地元からの差し入れなどもあって、一つ屋根の下で暮らしながら映画を作り上げていく。おそらく、日がたつにつれ、少しずつ町全体を巻き込みながら制作が進んでいったのだろう。そこでは、映画の制作過程そのものが「家族」を作り上げていく営みなのだ。

 それは、たとえば、柄谷行人のいう「漂泊的バンド社会」を想起させる。

その出発点は、現存する漂泊的バンド社会の観察である。そこから、定住以前の狩猟採集民社会について、ある程度推測できるだろう。観察された漂泊的バンドは、一部複婚を含む単婚的家族が幾つか集まって作られている。バンドの凝集性は、共同寄託や共食儀礼によって確保される。が、バンドの結合は固定的ではなく、いつでも出ていくことができる。バンドは概ね、二五―五〇名ほどの小集団である。その数は、食料の共同寄託(平等的な分配)が可能な程度以上に増大せず、また、共同での狩猟が可能である程度以上にも減少しない。また、バンドが固定的でないだけでなく、家族の結合も固定的ではない。夫または妻が同居生活を離脱すれば、夫婦は解消したものとみなされる。とはいえ、乱婚や近親相姦はない。家族と家族の間の関係は、もっと不安定である。ゆえに、親族組織は未発達であり、また、バンドを越える上位の集団を持たない。(『遊動論 柳田国男と山人』)


 むろん、柄谷もいうように、ここで言われているものは「抽象力」による「思考実験」である。同様に、本作の一夫多妻的な「上野山家」も、むしろ「映画=家族」作りによって派生したもの、あるいは、その「映画=家族」のあり方を映し出した「思考実験」としてとらえるべきだろう。それを「映画」が喚起する「抽象力=想像力」によって、より確かでリアルなものに鍛えていこうというのが、本作の目論見なのだ。

 ここでは、チチは、例えばフロイトのいう一夫多妻の「原父」のような存在ではない。それどころか、三組の母子や養子らが織りなす、家全体の危ういバランスがうまく保たれるように、常に気を配っている存在なのだ(夜は離れに一人で眠るのも気遣いの一つだ)。このチチのあり様は、合宿所における監督のポジションそのものを想起させるし、またそこには、男女問わずハハ的な役割を果たしている者も複数いたに違いない。

 すなわち、この作品は、映画の制作行為の可能性を通して、人間の「営み」そのものの可能性を模索しようとしているのだ(ねこが「ポチ」と呼ばれてもいいし、ねこに「小判」ではなく「みかん」でもいい)。

 作中の登場人物たちは、何度となく「私たちの家族って、やっぱり変なのかなあ」と懐疑する。彼らは、自分たちの「映画=家族」のあり方に決して自信を抱いているわけではない。

 だが、たとえそれが、田を作るのに困難な傾斜の強い場所であったとしても、そこに一段一段互いの信頼関係を積みあげていくことで、いつかそれは、冒頭に映し出される見事な棚田のようになっていくかもしれない――。そう信じて、今日もまた「ただいま」と「おかえり」を繰り返すのだ。

中島一夫