0.5ミリ(安藤桃子)

 冒頭、痰を吸引する管が映し出され、カメラは徐々に老人の口元へ、さらには傍らの家族らしき娘と介護するヘルパーへと移っていく。生々しいまでの介護の具体性を入口として、それを伝ってその奥に広がる家族関係、人間関係を映し出していこうとする本作のテーマが、早くも浮き彫りになる。

 介護とは、何よりもそれを通して家族の人間関係を容赦なく露わにするものであり、またヘルパーとは、どんなに「介護」だけを切り離しその一点で接しようとしても、どうしようもなく家族の関係の中に足を踏み入れざるを得ない存在なのだろう。

 本作のタイトルが示す微小さと、196分という上映時間の長大さとのアンバランスなまでのコントラストは、そうしたヘルパー「サワ」(安藤サクラ)の、まさに介護で身体に「サワ」ることを通じて、だがそこにとどまらず、家族の関係の深い部分にまで「サワ」ってしまうことになるあり様そのものを表していよう。

 もし人が、このサワのように、少々人情深くおせっかいであったら、高齢化が叫ばれるこの社会は、もっと豊かになるはずなのに――。本作は、こうした「ユートピア」を、監督自ら惚れこんで移住したという、海の向こうの四国、高知に見出だしている。

 この作品はまた、「探偵もの」として見ることもできよう。介護に通っていた家が火事になった後、ホームレス状態になって街をさまようサワは、カラオケボックスで一晩過ごした老人に、別れ際、彼のオーバーコートを譲り受ける。そのぶかぶかのコートを羽織った姿は、まさに「遊民=探偵」だ。本作のキャッチコピーに、「前代未聞のハードボイルド人情ドラマ」とあるが、確かにサワはハードボイルド探偵であり、かつファムファタールでもある。

 実際サワは、「茂夫」(坂田利夫)が駐輪場の自転車をパンクさせまくっていた現場に遭遇し、またある時は「義男」(津川雅彦)が女子高生の写真集を万引きしようとしていた現場に居合わせる。そして、その弱みにつけこんでは彼らの家へと押しかけいつのまにか住みついてしまい、彼らを性的に惑わせる存在でもあるのだ。こう言うと、やっかいな存在にしか聞こえないだろうが、サワの人情に触れているうちに、徐々に彼らは今までの生き方を見つめ直していくのである。

 したがって、作品のクライマックスで、海兵隊出身の元教師である義男が、「天皇陛下万歳」を叫びながらも、それを打ち消すかのように、「戦争くらい馬鹿らしいことはない」、「亡くなった人たちが気の毒でならない」、「いったいなんのためにやっているのか」と次々に「王殺し」ともとれる発言を(認知症的に)繰り返すのもうなずけよう。すが秀実が明快に論じたように(「探偵=国家のイデオロギー装置」『JUNKの逆襲』)、探偵(小説)とは、論理的に「王殺し=大逆事件」と踵を接しているからである(そういえば、大逆事件の中心人物である幸徳秋水も高知出身であった)。

 そのことが決定的になるのが、サワに宛てられた義男のカセットテープのメッセージから、「革命」の一語が洩れる瞬間だろう。「極限に追い込まれた人の輝きは極限状態を凌駕し、自己の実存として覚醒され、それは山をも動かす事となる。その山とは一人一人の心、0.5ミリ程度の事かもしれないが、その数ミリが集結し同じ方角に動いた時こそが革命の始まりである」。

 戦後、生き残ってしまったことを悔いながら今日まで生きてきた義男は、いわば探偵=ファムファタールたるサワに触れることで、ふいに「王殺し=革命」への思いを告白し、彼女にその「0.5ミリ」を「集結」させるごとく、己の革命論を託すのだ(義男が何度も繰り返す「重要書類」とは、この革命論だととるべきだろう)。

 このように見てくれば、「映画芸術」449号の対談で、新藤風がこの監督を、思わず「活動家みたい」と評してしまうのも、あながち的外れでもあるまい(ついでに言えば、関西ローカルのTV番組「たかじんのそこまで言って委員会」において、バリバリの保守論客として出演している津川雅彦に「王殺し」を敢行させるこの監督は、確かに映画監督ならではのサディズムをも持ち合わせていると言える)。

 「今日生まれる子も、明日死ぬじいさんも、皆一緒に生きてるんだよ。お互いにちょっとだけ、目に見えない距離を歩み寄ってさ」。そうつぶやいてサワは、佐々木家の「父」(柄本明)を「殺し」、その子供の「マコト」(土屋希望)を彼の暴力から解放しようと「家」から救い出す。このサワの言う「目に見えない距離」に、義男の「0.5ミリ」の残響があるのは明らかだろう。

 このときサワは、義男のメッセージを次世代のマコトへと伝えていく「橋渡し」的存在たろうとしているといえる。ラストで、マコトを乗せたサワの車が、光り輝く海の上に架かる「橋」を渡っていくゆえんである。

 ちなみにその車は、坂田利夫演じる、かつて自動車の整備工だった茂夫の宝物「いすゞ117クーペ」を、これまた譲り受けたものだった。まるで、同じく整備工だった老人から、マイノリティーの若者へと宝物の車が継承される、イーストウッド『グラントリノ』へのオマージュのように。そのとき助手席のマコト(=誠、真?)がまた、「希望」という名の俳優であることは、何とも出来過ぎなまでに見事な結末である。

中島一夫