インターステラー(クリストファー・ノーラン)

 ずいぶん前に見たのだが、ある懸念が的中してしまい、ずっと書く気が起こらなかった。だが、あまりにも本作の評価が高いので、やはりあまのじゃく的に書いておこう。

 すでに前作『ダークナイトライジング』(2012)のバットマンが、街を救うべく、海上で爆弾もろとも爆死するという自己犠牲を遂げたとき、ある程度は明らかになっていた。

 これは、宮沢賢治ではないか――。

 賢治「グスコーブドリの伝記」の主人公ブドリは、農村を冷害から救おうと、最後火山に一人残って爆死する。その賢治が、3・11以降、復興の、あるいは反原発のイデオローグとして呼び出されたのは周知のとおりだ。また、『ライジング』において、水浸しの核融合炉から持ち出されるあの爆弾は、あまりにも3・11の「悪夢」と符合し過ぎていた。

 そして、この新作である。個別の解釈についてはすでに多く出されているので、結論だけ述べよう。ノーランの「賢治化」はさらに進行している。あまりにも両者の想像力はシンクロしている。蓮實重彦がノーランについて「発想が文学的」と言ったのは、この文脈で見ても頷ける。

 ノーランを見てきた者なら、かつて彼の作品にあった何とも言えない「不快さ」や「不穏さ」が、すでに前作から影を潜めていることに気づいたはずだ。そして新作において、それは完全に消滅した。その新作に対する高い評価は、本当はかなり不気味なはずの賢治文学が、人々に愛と勇気を与えるものとして、あえて言えば鈍感に肯定され、受容されている現在にふさわしいというべきか。

 吉本隆明が言うように、賢治にとって、妹の「とし子は家庭内で打てば響くようにかれのいうことを理解」する存在だった。ゆえに賢治は、彼女の死を契機に「知識の総てをあげて、かれなりの死後の世界の在り方を構成しようと試み」、「そこへ移行してゆく妹とし子の姿を描いてみせた」(『悲劇の解読』)。確かに、賢治の文学は、ほとんどすべて、死んだとし子と「交信」したいという願いであると言っても過言ではないだろう。

 そのとき賢治が導入したのが、例えばアインシュタイン相対性理論に基づいた四次元世界だった(奇しくもアインシュタインが、とし子の死んだ1922年11月に来日している)。

かんがへださなければならないことは/どうしてもかんがえださなければならない/とし子はみんなが死ぬとなづける/そのやりかたを通つて行き/それからさきどこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向でははかられない/感ぜられない方向を感じようとするときは/たれだつてみんなぐるぐるする(中略)なぜ通信が許されないのか/許されてゐる(「青森挽歌」)

すべてこれらの命題は/心象や時間それ自身の性質として/第四次延長のなかで主張されます(「春と修羅」序)

 アインシュタイン相対性理論には、空間モデルの異なる「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」とがある。とりわけ、非ユークリッド的なリーマン空間をモデルとする後者は、それによって「ブラックホール」などの現象を説明できるもので、『インターステラー』においても重要な意味をもつ。

 賢治がどちらのモデルに影響を受けたのかは諸説あるが、見田宗介などは次のように言っている。「しかし一方、特殊相対性理論の難点をのりこえたとされる一般的相対性理論もまた、一九一二年、アインシュタイン来日の十年前にはすでに発表されており、貪欲に知の最前線を探索していた賢治がこれをしらなかったはずはないと思われる。少なくともその解説書などには触れて、「宇宙の孔」(ブラックホール)をも説明しうるあたらしい空間像に想像力を触発されていたはずである」(『宮沢賢治』)。

 重要なのは、「時間がほんとうに第四の次元というかたちで存在するのならば、それはとうぜん、わたしたちがみている三次空間のどこか〈遠方〉などではなく、身近かな空間のすぐ〈裏側〉といったところに、ただ日常の〈感官の遥かな果〉にこそあるはずである」ということだ。この「身近かな空間のすぐ〈裏側〉」が、『インターステラー』においては、例の本棚の「裏側」に見出されていることは言うまでもない。というか、「三次空間のどこか〈遠方〉」=宇宙空間と、「身近かな空間のすぐ〈裏側〉」=本棚とが、実は通じているということこそが、賢治=ノーラン的想像力の核心だといえよう。

 両者の空間の「通路」となっているのが、『インターステラー』においては、土星近傍の「ワームホール」(虫食い穴)にほかならない。これは、地上においては、「クーパー」(マシュー・マコノヒー)が、娘の「マーフ」をトラックに乗っけてトウモロコシ畑を突っ切り、その跡が「通路」のような「穴」となって表れるだろう。だからこそ、その通路は、再びクーパーを宇宙へと導くNASAの基地へと通じているのだし、成人したマーフ(ジェシカ・チャスティン)が「穴」を通ってトウモロコシ畑を焼き払いに行くと、それは父がいる宇宙の火災とシンクロすることにもなるのだ。

 農夫にして宇宙飛行士のクーパーは、トラックで畑を突っ切ってそのまま宇宙へと飛び立つ。そして、「銀河鉄道」ならぬ「レインジャー」で、インターステラー=星間旅行を行う。

 クーパー=親は、死んだとし子のように、娘=子の記憶のなかで「幽霊」として生きる。というか、いかにも黙示録的な賢治の「春と修羅 序」が告げるように、「わたくし」を、存在ではなく「現象」として見た場合、それは「あらゆる透明な幽霊の複合体」であり、「せはしくせはしく明滅しながら」「交流電燈」のごとく信号を発し続けるのである。ここでは、もはや「幽霊」(=非科学的現象)は、「重力」(=科学的真)の反対語ではない。むしろ、ある種の科学的な知の導入によって、はじめて幽霊は見えてくるのであり、彼との「交信」も可能になるのだ。

 今作は、こうした「賢治=ノーラン」的な想像力を、SFとして見るのか、はたまたニューエイジ的なものと見るのかで、評価が決定的に異なってくるだろう。そしてそれは大きく言えば、現在をどうとらえるかという問題でもある。

 例えば、われわれは、作中にあるように、アポロの月面着陸をどう見たらよいのか。科学による人類の夢の実現と捉えるのか、それともそれは、冷戦下における政治的プロパガンダ偽史にすぎなかったと捉えるのか。

 あくまで前者の立場をとる本作は、そしてインターステラーから「クーパーステーション」に「帰還」したクーパーは、娘との約束を果たしたことで「正直さ」レベルを「90%」から「95%」に向上させ、再び宇宙へと旅立った。だが、果たしてそれは、本当に真実=正直であり、科学的真なのか。この真/偽の判断の問題は、今なおわれわれを規定している。

中島一夫