ツリー・オブ・ライフ(テレンス・マリック)

 かけがえのない身近ないのちを喪失した者が、それでも生きていかねばならないとき、いったいどうすればその欠落を埋められるのか。
 寡作で知られるテレンス・マリックの新作は、次から次へと災厄に見舞われる今こそ人々に届け、とばかりに舞い降りてきたかのような映像だ。

 3月11日、ちょうどカンボジアに向かう機内にいた。現地のホテルに着き、何も知らずにテレビをつける。家々が根こそぎ汚泥に巻き込まれ流されていく映像が音もなく流れている。いったいこれは、いつの、またどこの映像なのか。アナウンサーのこわばった声、首相の顔、少しずつ状況がつかめてきてあ然とする。何かの間違いではないかとひたすらチャンネルを回すが、BBCもCNNも同じ映像を流している。

 翌日の朝、アンコールワットに昇る朝日を見に行く。さまざまな国から訪れた人々。「ジャパニーズか?」と聞かれ「そうだ」と答えると同情を受け、やましさのような気持ちを抱く。いよいよ朝日が昇ると、その瞬間、見たこともない光景があたりを包んだ。

 人々が、そこかしこで手を合わせて祈りはじめる。世界中が、震災で失われたいのちと残された者のために祈っているかのような、そんな錯覚を覚えた。見渡すかぎりの大勢の人々が、同じ太陽を見つめていたからだろうか、あたりを見回すと、皆どこかで出会ったことがあるような、人々がそれぞれ自分の場所を占め、離れて立ち、また腰かけているその当たり前の事実よりも、大地のつながりの方を強く感じる。そんな幻想的な瞬間だった。

 妻は、刻一刻と高く大きくなっていく太陽に向かって、何かに導かれるように、後ろも振り返らずにどんどん歩いていく。いつしか、後ろ姿も見えなくなった。止むにやまれぬ思いに駆られたのだろうか。


 「弟よ…、母よ…」。
 今は実業家として成功しているらしい長男のジャック(ショーン・ペン)は、ガラス張りの超高層ビルの中を行き来しながら、19歳でこの世を去った弟のことを思う。自らが産み育てたいのちのひとつを失った母は、いったいどのようにこの巨大な喪失を受け止め得たのか。「父さんにあんなことを言って悪かった」。電話の向こうの父に、何かを謝るジャック。そして、どうしようもなく先に生まれた父と母による、それぞれ形の違った愛のもとで、これまた宿命的に三人兄弟として生まれ過ごした幼い頃の回想が頭をめぐる。

 ふいに無から有の生成のシーンが導入される。宇宙創成から地球誕生、そして生物の登場と進化の歴史へ。圧倒的な映像美と荘厳に奏でられる音楽とのシンフォニーでつづる、崇高かつ壮大なシーンだ。

 暗闇に爆発が生じ、光の粒子が散乱する。飛び散ることで空間と時間が一挙に現れる。地球らしき惑星が誕生し、いたるところにマグマが噴火、水があふれ出しては流れ落ち、大地が冷却され徐々に形を成していく。海が生まれ、水中には微生物やクラゲのような生物が浮遊し、大地の裂け目から植物が顔を出す。

 鬱蒼とした森で恐竜が目覚め、水辺へ歩き出す。岸辺で横になっていると仲間がやってきては、そっと顔に触れる。どうしようもなく似た者同士でありながらも、同時にどうしようもなく別々の個である幼き頃の三兄弟や家族の戯れの日々が、いかにこうした動物の歴史に連なり、またそれをなぞっているかを想起させるシーンだ(生まれたての赤ん坊が、まるで恐竜の赤ん坊のようにも見えてくるから不思議だ)。

 この20分超はあろうかという、テレンス・マリックならではの宇宙創成の雄大なビジョンは、これだけでも見る価値があろう。そして、そのときは一見長すぎるとも思えたこの長大なシークエンスが、作品全体をふりかえると、いかにテーマにとって必然的な長さだったかがわかるのだ。

 ひとつのいのちの誕生も消滅も、この無から有への壮大な宇宙史のほんの一こまにすぎないこと(だから、ついに次男の死の理由は明かされない。それがテーマではないからだ。死はいつも理由が分からない)。そして、そのように捉えることで、人はひとつのいのちの喪失を、それとして受けとめられるようになるのではないかということ。

 確かに作品は、ジャックが乗ったエレベーターや、幼い日々に見上げた木々や空など、ことさらに垂直性=超越神を強調する。だが、本当は、その超越性の担保になっているのは、宇宙、地球、大地、生命、…といった、次から次へと螺旋的に広がり連なっていくことで、あまねく空間と時間を満たしている、生物を含めた物質の歴史なのではないか。だが、人は得てして後者を忘れてしまう。

 大人になったジャックは超高層ビルでひとりつぶやく。「人間はどうしてこんなにも欲深くなってしまったのか」。それは、宇宙や自然の歴史と切り離された貨幣という超越神のみを追い求めてきた結果、超高層ビルに一人閉じ込めれてしまったかのような自らも含めた人類全体への、自戒と後悔のため息である。母(ジェシカ・チャステイン)は「あそこが神の住み家よ」と木々の上、空の彼方を指差しながらも、同時に「兄弟、お互いに助け合うのよ」と教え諭してくれていたではないか。

 幼きジャックは、いつしかポケットに手をつっこんで遠くをまなざしながら歩く、父(ブラッド・ピット)の姿を模倣していた。あんなに嫌で嫌で仕方のなかったはずの横暴な父の姿までも真似するようになってしまい、弟につらく当たったこともあった。「母さんが本当に好きなのは僕だけだ」「父さんは僕を殺したいんでしょ」。典型的なエディプス・コンプレックス

 だが、父も母も自分も兄弟も、無から有へという壮大な螺旋状の歴史に、皆どうしようもなく連なっている。自分はどこから来てどこへ行くのか。あまりに「自分」本位な問いだ。どこへも行かない。ひとつのいのちはどこへも行かない。空の上に天国があって、そこに行けば亡くなったいのちに会えるのではない。無から有が創造されたその出来事自体が、そのまま物質であるわれわれすべてを螺旋状の歴史に包摂しているのだ。今あるいのちも、亡くなったいのちも、どうしようもなくそこに連なり絡まりあってある。冒頭の『ヨブ記』は告げていたではないか。「私が大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか」。

 回想の果てに、ジャックはそうした至福のビジョンを見た。そこには自分が関わったすべての人々が、ひとつの大地のつながりの上にいた。だが、そこは決して天国=あちら側のドアの向こうにだけある世界ではない。最後、エレベーターを降りてきたジャックは、母が弟の喪失をそのようにして受け入れたことに思い至る。「神よ、息子のいのちをあなたに捧げます」。

 もはや彼は、その母を媒介に、「上」ばかり見上げる人間ではなくなっている。それを明かすように、下へ下へと降りるエレベーターのガラス越しに映る景色は、いつものように無機的ではない。そこには美しい緑の木々が映っている。

 大地に降り立ち、ほほえむジャック。その向こうには、すでに此岸と彼岸は結ばれたように大きな陸橋がかかっている。この陸橋が人工物に見えない者は、幸いである。

中島一夫