保守革命の「時間と自己」

 

 

 亡くなった木村敏は、分裂症親和的な時間を「前夜祭的(アンテ・フェストゥム)」、鬱病親和的な時間を「あとの祭り(ポスト・フェストゥム)」と呼んだ。これらが、ルカーチ『歴史と階級意識』から借用した概念であることは言うまでもない。

 

 ルカーチは、「現在が過去によって支配される」資本主義に規定された保守的な意識を「ポスト・フェストゥム的」と形容した。それに対比させ、フランスの社会学者で精神科医のJ・ガベルは、プロレタリアートの未来希求的なユートピア意識を「アンテ・フェストゥム的」と呼んだ。「プロレタリアートが自由と革命を希求する強烈な未来意識は、新しい時代の到来という祝祭的な気分をすでに先取的に予感している点で、「前夜祭的(アンテ・フェストゥム)」というにふさわしい」(木村敏『時間と自己』)というわけだ。そして、木村はこれに分裂病者の未来先取的な意識構造を、対する「ポスト・フェストゥム」に鬱病者のそれを見出したのである。

 

 だが、アンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥムとは対称的でも対立的でもない。木村自身が述べるように、「アンテ・フェストゥムの反対がポスト・フェストゥムだとは言えないのである」。

 

 そのことは、ポスト・フェストゥム/アンテ・フェストゥムが、ルカーチ(あるいはハイデガー)に依拠した概念であることから明らかだろう。すなわち、ポスト・フェストゥムという意識の保守性は、いわゆる「保守革命」(フーゴー・フォン・ホフマンスタール)の時間構造を示しているのではないか。そもそも、リュシアン・ゴルドマン『ルカーチハイデガー』が言うように、ハイデガー存在と時間』がルカーチの『歴史と階級意識』を下敷きにしていることをふまえれば、木村の思考がハイデガー西田幾多郎の影響下にあったことを考えあわせれば、そこからルカーチの参照は必然だったといえる。

 

 ところで、ルカーチハイデガーは、「物象化論=疎外論」という「故郷喪失」のテーマを共有していたが、その故郷喪失=疎外論は、ポスト・フェストゥムにおいては「所有の喪失」として現れる。

 

ポスト・フェストゥム的な過去も、アンテ・フェストゥム的な過去とは似ても似つかぬものである。それは決して過ぎ去って帰らぬものではなく、つねに現在の奥深くに蓄積されている。それは過去というよりは、つねに現在完了としてしか語れないものである。多くの外国語において、現在完了を表すのに、所有の助動詞が用いられるのは、決して偶然ではない。have doneといわれるのは、なされたという形で現在そのことが所有されているからであり、have beenとは、自己がすでにしかじかであったことが現在にまで影響を残しているからである。国語によって、また動詞の種類によって、所有の助動詞のかわりに存在の助動詞が完了型を表すのに用いられることはあっても、事態の本質に差異はない。いままでそうであったことを、いま一種の蓄積として所有しているか、それをいまの自分の状態として存在しているかの見方の差異があるだけである。このことと関連して、鬱病の発病状況がすべて「所有の喪失」としても理解できるのは興味深い。(『時間と自己』)

 

 いわば、ポスト・フェストゥム的な「現在」においては、過去においては所有していた「故郷」が今は喪失されており、しかも喪失されながら「現在の奥深くに蓄積されている」「現在完了」としてある。この「所有の喪失」が、鬱病者に「とりかえしのつかないことをしでかした」「済まないことをした」という未済のまま完了してしまった負債感情=罪責感をもたらすことになる。

 

 だが問題は、この「所有の喪失」が、実際は「喪失」ではないことだ。ポスト・フェストゥムとは、かつて所有したことのないものを「喪失」したという誤認に基づく感情なのである。「メランコリー親和型の人がとりかえしのつかない事態を避けようとするのは、とりかえしのつかない形で自己自身におくれをとるというレマネンツ的なありかたが、彼らの持前の人生設計自身の中にすでに確実にプログラムされているからなのである」(『時間と自己』)。メランコリー=ポスト・フェストゥムにとって、「とりかえしのつかない」状態は、決して想定外ではない。それは、あらかじめ「プログラムされている」ことなのだ。言い換えれば、本当は「故郷」はあらかじめ欠如しているにもかかわらず、それを「喪失」として、とりかえしがつかないという形で「所有」しようとする欲望がメランコリー=ポスト・フェストゥムだといえよう。故郷を回復しようとする「保守革命」が、不可避だが不可能であるように。そして不可避なのに不可能であり、不可能なのに不可避だからこそ、人は鬱病になるのではないか。

 

 初期マルクス的なルカーチ疎外論が実は保守革命的であることは、ソ連崩壊後、いやスターリン批判以降、隠しようもなく露わになった。ポスト・フェストゥムとは、こうして「近代=現代」(モダン)という時間構造を、それなしでは「のりこえ不可能」(サルトル)だったマルクス主義という「歴史の必然」が機能しなくなって以降の「時間と自己」のことであり、つまりわれわれ誰もが免れ得ない「鬱」のことなのだ。『時間と自己』が、そしてポスト・フェストゥムが、ある程度人口に膾炙したゆえんである。

 

 ここにはもうアンテ・フェストゥム的な未知の未来は存在せず、ポスト・フェストゥム的な現在の延長としての未来しかない。中井久夫は、江戸時代の「立て直し」路線に鬱病を、「世直し」路線に分裂病との親和性を見たが(『分裂病と人類』)、現在とは後者なき世界である。「彼ら(注-鬱病者のポスト・フェストゥム的意識)は未知なる未来を見ようとしない。「未知なる未来」という観念すら持ち合わせていないかに見える。彼らにとってあるべき未来とは、これまでのつつがない延長にほかならない〔…〕」(『時間と自己』)。

 

 おそらく、その後木村が「イントラ・フェストゥム」(祭りのさなか)という「第三の狂気」を見出さねばならなかったのもそのためだ。「イントラ・フェストゥム的意識に特徴的な時間構造は、いうまでもなく、現在への密着ないしは永遠の現在の現前である」。ここではこれ以上展開できないが、これは前回のエントリーで述べた、デリダの見た、「狂気」のシンギュラーな「瞬間」とある程度親和的であるように思う(『時間と自己』の最終章には、デリダの名がさかんに引かれている)。いずれにせよ、マルクス主義歴史観が失効して以降を生きるわれわれは、いまだ木村の思考した「時間」と「自己=狂気」の中にある。

 

中島一夫