単独性=シンギュラリティは狂気か

 偶然が重なっただけかもしれないが、そのような傾向があるのだろうか。

 先日、躁鬱に苦しむ若い人が、「これも自分のスキル=能力と思うようにしている」と言うのに続けて立ち合った。そのように考えることで、少しでも気持ちが安らぐのであれば、それについてはとやかく言えない。それこそ躁鬱と付き合うなかで身につけたスキルなのだと思う。ただ、聞いていて、フーコーの「狂気とはいったい何であったのか、ひとにはもうよく分かりはしない、という日がやがてくるだろう」という言葉が自然に思い出された。

 

アルトーは、われわれの言語活動の地盤崩壊にではなく、われわれの言語活動の地盤に属することになろうし、諸々の神経症は、われらの社会の逸脱にではなく、われらの社会の構成的諸形態に属するものだ、ということになるだろう。われわれが今日、極限=境界、異様性、耐え難さとして体験しているもののすべては、実定的(ポジテイフ)なものの平穏へと復帰することになるだろう。そして、いま現在、われわれにたいしてこの〈外部〉を指していることがらが、われら自身をある日指すことになるのである。(「狂気、作品の不在」石田英敬訳)

 

 「諸々の神経症」の「耐え難さ」は、もはや「社会の逸脱」や「外部」ではなく、われわれの「平穏」であり「われら自身をある日指すことになる」――。躁鬱が一個のスキルとなるとき、それは外部の「狂気」ではなく、社会の「内部」へと折り返され、われわれはそれを「異様性、耐え難さとして体験している」ものの、もはやそれはネガティヴなものではなく、ポジティヴに捉え返されているといえる。まるで、そのスキルを身につけることで、自らが交換不可能な特異性、単独性(シンギュラリティ)であることを証明できるかのように。

 

 そのありようは、資本が市民社会の再生産を放棄し、そこから引き揚げることで、市民社会の労働力市場が穴=間だらけとなり、そこに落ち込んでしまった個が、今度はひたすら、そうなりたくなければスキルを身につけよ、スキルアップをはかれ、そうしないとシンギュラーな能力=労働力商品になれないぞ、いやもう労働者の側に回ろうと思うな、これからは個々がお互いに間=差異(ディスタンス)をはらんだ資本家(起業家)なのだとせきたてられている――、そうしたわれわれの社会の「平穏」そのものであり、つまりは「われら自身」の姿なのだ。

 

 かつて、デカルトの解釈をめぐって繰り広げられた、フーコーデリダの論争の論点のひとつは、このことをめぐっていたと思われる。すなわち、「人間」同様、「狂気」も終焉し、それは海岸線の砂の顔が消えるように消え去るだろうというフーコーに対して、デリダは、フーコーのいう「終焉」や「海岸線」というリミットが引かれること自体が理性の「内部」でしか起こり得ない、したがってそれは厳密には「終焉」でも「リミット」でも何でもないと批判した(「コギトと狂気の歴史」『エクリチュールと差異』)。デリダは、フーコーのように理性と狂気の分割線の消滅という事態ではなく、その線そのものが引かれる「瞬間」=「誇張的なものの切っ先」に終始こだわろうとした。デリダがその後も、キルケゴールの「決定の瞬間は狂気である」を何度も引用したゆえんである。ここにデリダ決断主義がある。

 

 ところで、この「瞬間=切っ先」は、理性にも非理性にも属さないシンギュラー=特異的な「場」ということではないだろうか。それは例えば、アブラハムが、イサクというシンギュラーな「死を与える」「決断」をするシンギュラーな「瞬間」という「秘密」の「出来事なき出来事」の「場」である(『死を与える』)。

 

 フーコーは、狂気(非言語)を狂気として捉えるメタ理性(メタ言語)がもはや機能せず(いわゆる「父の〈否〉」=「父の名」の排除)、両者を隔てる位階の分割線(海岸線)が消滅しつつあるのを見た。

 

未来のなんらかの文化の目から見れば――その文化はおそらくすでに近くに迫っているのだが――、われわれは、決してじっさいには発音されたことのない以下の二つの文、有名な「私は嘘をついている」と同じほど矛盾していて不可能な二つの文を最も近くまで近づけた人間たちだということになろう。その二つの文とは、「私は書く」と「私は狂う」というものだ。われわれはこうして、「私は気狂いだ」という文を、「私は獣だ」、「私は神だ」、「私は記号だ」に近づけた他の無数の文化や、はたまた、フロイトに至るまでの十九世紀のすべてがそうであったように「私は真理だ」という文に近づけた文化と肩を並べることになろう。(「狂気、作品の不在」)

 

 「私は嘘をついている」という言表が嘘か真実かを決定できないように、「私は書く」と「私は狂う」、「私は真理だ」と「私は気狂いだ」という二つの文は矛盾した不可能な文である。恐ろしいのは、二つの文が互いに矛盾しているから両立不可能だということではない。そうではなく、「私は狂う」「私は気狂いだ」という言表が実際には不可能であり(「決してじっさいには発音されたことのない」)、にもかかわらず、現にわれわれは平然とそれらの文を書き読み発音してしまっていることで、「私は書く」「私は真理だ」という文の「最も近くまで近づけ」てしまい、あたかも不可能性が回収されてしまっているということなのだ。フーコーの「終焉」や「リミット」とは、その漸近と回収ぶりを指している。それは、われわれの「平穏」に狂気が漸近し、不可能性がポジティヴに捉え返されている、あのありようと同じである。デリダは、それに対して、いや狂気は決して回収しきれないシンギュラーな「瞬間」としてある、と反論したのだろう。

 

 むろん事態は表裏一体だ。そもそも、「父の名」が排除されなければ、複数のシンギュラリティの出る幕はなく、それらは見出されようもないからだ。どう特異的で単独的なのかを言語で語ることは不可能だからこそ単独性=シンギュラリティなのである。「スキル」とは、こうした事態をポジティヴに捉え返そうとする「技術」だろう。

 

 だが、フーコーデリダの「海岸線」に即してもう一度それを捉え返せば、「私はスキルだ」はそもそも不可能ではなかったか。われわれは、「私はスキルだ」と「私は狂う」が限りなく接近した場所にいる。そこは、シンギュラリティに「なる」というポジティヴな誘惑の声が、不断に聞こえてくる場所である。

 

中島一夫