リアリティのダンス(アレハンドロ・ホドロフスキー)

 この自伝的な新作のタイトルが明確に示しているように、ホドロフスキーにとって、歴史の真実は存在せず、したがって「リアリティ」は「ダンス」のように乱舞している。冒頭、舞い踊る貨幣のように。貨幣は、一か所にとどまっていては価値を生成しない。ダンスすることでリアリティを創造する幻想の産物だ。ホドロフスキーにとって、映画もまたそのような偽史的想像力の所産である。

 今や、60年代のアングラ演劇やその末裔に、前衛性を追い求めても仕方がないように、今さら70年代『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』のような前衛性をホドロフスキーに見出そうとしても、それはノスタルジーにすぎまい。

 もちろん、ノスタルジーにひたって悪いわけではない。ただ、今作への高い評価は基本的にそのようなものだと言わなければならない。むしろ今作が語っているのは、前衛の失効なのだ。自らの前衛性は、少年時代の故郷=チリのトコピージャにしか存在しなかった、とホドロフスキーは言っているように見える。

 だから、聖人、小人、手足のない人、サーカス団、風船…といった過去作のモチーフが勢ぞろいとなる。むろん、例えば手足のない人は、この鉱山の町には、採掘の際にダイナマイトで手足を吹き飛ばされてしまった人々がたくさんいたからだし(「ダイナマイトは優しくない!」)、浜辺に大量のイワシの死体が打ちあがるのも、当時、電力会社の汚染が、ふるさとの海を死んだ魚で埋め尽くし、鳥と貧民がそれを奪い合っていたという、少年ホドロフスキーが見た原光景によっている。

 だが、新作ではそれが、少年ホドロフスキーの背後に張りつく語り部=現在の85歳の老人ホドロフスキーを通して語られる。かつては前衛的だったはずのシーンが、もはや「物語」として語られるほかないのだ。

 とりわけ、この作品でホドロフスキーは、「両親を再構築した」と言う。それによって「私は父親を許し」た、と。では、どのような「再構築」だったのか。

 おそらくそれは、スターリンを崇拝し「死ねば腐るだけ。神はいない」という徹底的な共産主義者唯物論者で、息子の自分にも「鉄の男」となるよう半ば暴力的なしつけを施す父が、結局は、母の宗教性豊かな身体と豊満な胸に抱かれていた存在だったという「物語」、いや「オペラ」(母はオペラ歌手のようにすべてのセリフを高音で歌い上げる)によってであろう。

 こうした父母の姿は、スターリンと彼にキスをする女神の姿が描かれる、コマール&メラミードのソッツアートの絵画「社会主義リアリズムの誕生」を思い起こさせる。すなわち、ここではスターリンは、もはや史的唯物論=歴史の必然を体現する「鉄の男」という主体ではなく、すでにその虚構性を暴かれ、美的・詩的にそれらを制作、ねつ造(再構築!)する、いわゆる「デミウルゴス的主体」(ボリス・グロイス)となっているのだ。

 チリの独裁者イバニエス暗殺に失敗し帰還した父が、スターリンの肖像を撃ち抜くシーンは、その父の転向を示していよう。重要なのは、それが母の「物語」への屈服でもあったことである。なぜなら、実はスターリンの肖像の下には、イバニエスと父自身の肖像が重ねられており、その三位一体の肖像は、父が独裁者の仮面をかぶった臆病者にすぎないことを、母が暴露するための、そして父にそのコンプレックスを乗り越えさせる仕掛けだったからだ。

 父が、自らの肖像の頭を撃ち抜くと、三位一体の肖像はもろとも炎上する。思えば父は、イバニエスは自分自身でもあったからこそ、暗殺するときに指が硬直してしまい不発に終わったのだろう。それ以来硬直していた指も、この「儀式」を経て治癒するのだ。

 これが、ホドロフスキーが、母に依存しながら(寄り添いながら)、父を許し再構築するために語った物語である。だがホドロフスキーの、反スターリン主義的な黙示録的革命=前衛性が、スターリン=父がいたからこそ可能だったことは言うまでもない。前衛ホドロフスキーは、本当は母以上に父に依存していたはずなのだ。

中島一夫