エッセンシャル・キリング(イエジー・スコリモフスキ)

 足跡ひとつないまっさらなパウダースノーの上。あるいはたてがみまで色鮮やかな白馬の肌。その白にしたたり落ちる真っ赤な鮮血。結晶の形まで見てとれそうな氷まじりの雪原。雪解け水流れるせせらぎ。ピンク色に染まった夜明け前の広大な空。

 自然の造形美としかいいようのない見事な「色」。何はともあれ、色鮮やかな画面に目を奪われてほしい。

 画家でもあるイエジー・スコリモフスキは選択する。ならば、それ以外の要素は極力捨て去ってしまってはどうか。『エッセンシャル・キリング』は、徹底した引き算の映画であり、まずもって映画におけるエッセンシャルなものを追求しようとした作品だ。

 ストーリーもセリフもなし。そうはいっても、映画は絵画と違って動画なのだから、最低限の「運動」は必要だろう。では、ひたすら逃げまくる男(ヴィンセント・ギャロ)を登場させてはどうか。若干のアクセントとして、追手が迫るサスペンスや、アクションを入れてもいい。

 男は名前も国籍も分からず、身元も曖昧で、第一耳も聞こえず話もできない。どこの誰だかわからない。それを裏づけるように、男は何度も服を着替え「変身」しては、その匿名性を増すばかりだ。そして、どこからともなくやってきて、どこかへ消えていく。典型的に物語の構造をもち合わせながら、そこには「語り」だけが不在だ。

 男はどうやらアラーに身を捧げ、ジハードを敢行したようだ。死に瀕するたびに、男にはアラーの呼び声が聞こえる。だが、チェンソーで樵を殺害する前に、そのイメージを先どりするように回想シーンに映り込んでしまっているところを見ても、そんな「ストーリー」らしきものは、この作品にとってはどうでもいいらしい。

 男を追跡するヘリコプターからの俯瞰のカメラは、緯度と経度を割り出してはピンポイントで男を追い詰めていく。これだって、逃げ場のない超管理社会のカリカチュアだと捉えることも可能だ。でも、これもどうでもいいことだ。

 追い詰められ、逃げまどい、死に片足突っ込んだ男。飢えに瀕した彼は、アリ塚のアリや木の幹をほじっては食らい、魚は生のままかぶりつき、ついにはなりふり構わず、奇跡的に通りかかった女の母乳をむさぼるほどに野性化する。そんな極限の人間が見る光景は、何と研ぎ澄まされ、これほどまでに美しいことか。

 男はいきがかり上、何人もの人間を殺害する。映画は、それについて倫理的な判断を一切下さない。ただ、その「殺し」は、一方にそれと対照的に描かれる国家の軍隊による殺しとは、まったく異質な「エッセンシャル」なものであることは確かだ。そして、その「エッセンシャル・キリング」は、そのまま「エッセンシャル」な「生」でもある。この残酷な美しさ。

 男同様、話すことのできない女性(何と、ロマン・ポランスキー夫人のエマニュエル・セニエが演じている)との邂逅シーンが素晴らしい。お互いに何者か分からない不安と緊張のなか、何とか互いの「人間」を探り当て確かめあうような手探りのコンタクトは、あまりにぎこちないゆえに、かえって何ともいえず「人間」らしさを浮き彫りにする。「コミュニケーション」などではない。別れ際の、言葉なき、一瞬の視線の交錯には、言葉や感情を排した、動物と動物のエッセンシャルな交わりと交わりがたさがあるのだ。

中島一夫