ル・アーヴルの靴みがき(アキ・カウリスマキ)

 「戻ったよ」「そうね、何か作るわ」。
 淡々と無表情で言葉少なに交わされる夫婦の会話。でも、なぜか暖かい。

 思うにカウリスマキほど、人間の感情やコミュニケーションを信じていない作家もいない。逆にそこが信用できるのだ。人の感情は、得てして過剰で大げさなものであり、また人は決して他人の言葉を正確に聞くことも読むこともないのだから。

 カウリスマキが信じているのは視線だけだ。〝目は口「よりも」物を言い〟というのが、カウリスマキのテーゼである。監督はいう。「俳優の顔すら必要ない。僕が必要なのは彼らの視線」。

 カウリスマキの世界は、いつもコミュニケーション社会の外に創造される。だから、一見空想的なおとぎ話に見える。だが、彼の作品をいくつか見てみればよい。登場人物たちは、コミュニケーションとは異なるものによってつながろうとしているのであり、そうすることで、幸せを待つのではなく懸命に創り出そうとしているのだ。彼がいうように、とかく「人間はしゃべりすぎる」のであり、かえってつながりを失っているのだから。

 カウリスマキの人物たちは、言葉同様、少なく食べ、飲む。主人公の「マルセル・マルクス」は、ポケットの中身を勘定しては、卵ひとつのオムレツと一杯のワインを注文するような人物だ。かつて、彼はパリで、ボヘミアン生活を送っていたが、ホームレス状態に陥っていたところ、その後妻となる「アルレッティ」(カウリスマキ作品のミューズ、カティ・オウティネンだ)に「拾われ」、今は北フランスの港町ル・アーヴルで靴磨きをしている。

 慎ましく暮らす夫婦と愛犬、界隈の住民らとの持ちつ持たれつのゆるやかな共同性とくれば、おなじみのカウリスマキの世界だ。そこにコンテナに隠れて密航してきたアフリカ難民たちが迷い込み、なかでも、警察の一斉検挙を一人すり抜けた黒人の少年イドリッサと出会ったことが、穏やかだったマルセルの生活を一変させることになる。

 だが、カウリスマキが、この作品でヨーロッパの移民問題に取り組んだというのは大仰だろう。たとえ自身が「この映画は失われたヨーロッパについて言及している」と述べているとしても。そうした大文字の政治問題を取りたてて主張するまでもなく、カウリスマキ作品においては、小さき者、よそ者、虐げられている者同士、当たり前のように交わり、支え合うのではなかったか。そこでは、コンテナは、ずっと彼らの隠れ家であり、また彼らに触れているうちに、警察も自然と寛容になっていったはずなのだ。何も今にはじまったことではない。

 さまざまなレビューで、ラストの「奇跡」が取りざたされているが、これもどうか。アルレッティの病は起こるべくして起こり、治るべくして治ったからだ。

 冒頭、マルセルに靴を磨いてもらっていた男は、その後警察に取り囲まれ、追い詰められて命を落とす。このとき、マルセルは、自分の客に同情を示すこともなく、事もあろうに「でも金は払ってくれたぞ」と嘯いていそいそとその場を立ち去ってしまう。この、金さえ入ればそれでよい、面倒なことには巻き込まれたくない、という元ボヘミアンにあるまじき功利主義が、警察が犯罪者を追い詰めて殺してしまうこの街の不穏さと相まって、おそらくはアルレッティに「病」をもたらしたのだ。

 そして映画は、ル・アーヴルの裏通りに贈与とお返しの「ユートピア」を創り上げていく。黒人少年のイギリス行きのために奔走するマルセルを中心に、少年の救出と脱出が街中総出で実現されていくのだ(「リトル・ボブ」ことロベルト・ピアッツァのライヴはその頂点だ。監督は、ル・アーヴルを「フランスのメンフィス」、リトル・ボブをそこの「エルビス」と呼んでいる)

 警視ですら、必要以上に少年を追い詰めず、寛容に脱出を黙認することで、さりげなく市民の側に立つ。冒頭の街の不穏さはもはやない。アルレッティは、病気が「治った」ではなく「消えた」と言っていたではないか。彼女が、少年と入れ替わるように退院し、家に戻ってくることを忘れてはならない。

 ラスト、人々のつながりを養分とする生気は街に取り戻され、いつしか桜をも満開にしたようだ。

中島一夫