ブラック・スワン(ダーレン・アロノフスキー)

 最近は肯定できない作品については沈黙していたのだが、この作品の反動性は、それなりにスゴイものがあったので、あえて触れておこうと思う。

 断っておくが、バレエ映画としてはとても見られない。「おっ」と思わせるのは、冒頭、ナタリー・ポートマンが足指をくねらせてポキポキいわせ、その生々しい音が、一瞬「身体」を際だたせるシーンぐらいだろうか。

 あとは、彼女の背中が痛々しく引っ掻かれようと、その爪が剥がれようと、酷使した足指がくっつこうと、また艶めかしく自慰を行おうと、それはあくまで身体を借りた心理(サイコ)の表現にすぎない。その後は、いかにも優等生=白鳥のナタリーが、カンパニーの演出兼監督のヴァンサン・カッセルや、母親のバーバラ・ハーシーに、精神的・心理的に追い詰められていき、最後に狂気=ブラック・スワンに化けていくのを見届けるばかりである。

 そういうわけで、三分の一ぐらいですっかり退屈してしまったのだが、その後惰性で画面を眺めながら「やはり、ピナ・バウシュは死んだんだなあ」などとぼんやりと考えていた。

 大まかに言って、十九世紀の新古典主義的な「大きな物語」を体現するマリウス・プティパの振り付けのあと、それを解体、脱構築する二十世紀のモーリス・ベジャールのシンボリズムの振り付けが続く。だが、シンボリズムは、極めて洗練、抽象化されてはいても、そこにあるのは、あくまで男性身体、女性身体の「シンボル」であり、それゆえ人間の「内面」の表現や、それから成る物語性を免れることはできない。そもそも、バレエが身体表現である以上、身体の象徴性は、いかんともしがたく残存してしまうのだ。シルヴィ・ギエムのような身体は、そのことを極限において示した。

 そして、よく言われるように、「白鳥の湖大きな物語」もシンボリズムもこなすシルヴィ・ギエムのような身体をもってしても対応できないようなものとして、ピナ・バウシュのタンツテアターは現れた。そこには、容易にシンボル化されない「もの」としての身体があった。

 パーティーの席で、演出家は「新作では古典をやる」と高らかに宣言、それまでずっと彼の創作のミューズだったプリマ、ウィノナ・ライダーが無残にもお払い箱となり、代わって保守的な優等生のナタリーが主役として抜擢される。身体から心理=内面の表現へ、また古典=大きな物語への回帰が告げられる。

 回帰すること自体が問題なのではない。その回帰に、一瞬たりとも逡巡が見られないことが問題なのだ。物語は、白と黒、正と邪、生と死といった分かりやすい二項対立のテーマが、ドッペルゲンガー、鏡、モデル/ライバルという、これまたありがちな二重性によって増幅しながら、だが決して破たんすることなく、淀みなく進行していく。ナタリーの破たん自体が、型どおりの「破たんのない物語」の中にあり、したがってそれは、スリラー抜きのサイコ・スリラーなのだ。

 まるでバレエの歴史など存在しなかったかのようなこの作品は、だが、そうであるゆえに、おそらく一昨年のピナ・バウシュの死という歴史性を、逆説的に刻み込むことになるのではないか。またそう捉えることだけが、この作品を、バレエ映画として救いだす唯一の方法である。

中島一夫