八日目の蝉(成島出)

 「八日目」という未来の時間は、いったい誰のものか。

 良くも悪しくも「キレイだ」という印象だ。
 この作品には、過去―現在―未来という垂直的な時間軸しか存在しない。横の水平的な人間関係や葛藤、いわゆる「他者性」は、きれいに除去されている。他者は未来にしかいない。

 もちろん、未来の他者とは本当に「他者」なのだろうか、という疑問はぬぐえない。本来なら、最も対峙、対話しなければならないはずの、赤ん坊を連れ去り自分の娘として育てた加害者の「希和子」(永作博美)と、彼女に拉致された被害者の「薫=恵理菜」(井上真央)はついにすれ違ってしまう。小豆島の風景と新たに宿ったいのちを媒介として、互いが互いを想像しあうばかりだ。

 だが、監督の成島出は、そうしたすれ違いに「光」を感じたという。「最後、原作では希和子と恵理菜がすれ違う形になっているんですけど、僕はそこに光を感じたんです」(『ユリイカ』5月号)。

 なぜ、すれ違いに「光」が差し込むのか。すれ違いながらも、両者は結びつくからだ。そして、希和子と薫を結び付けるものこそ、母性が無意識的に、また連鎖的反復的に紡ぎだす「八日目」という未来の時間にほかならない。

 「八日目」とは、普通は七日間しか寿命のない蝉が、ひょっとしたら生き延びてしまうかもしれない未来の可能世界である。成長した薫は、自身子供を宿してから、突然「八日目」を生きる「未来の他者」にポジティヴな意味を見出す。


 「それで私ね、思ったんだよ。私にはこれをおなかにいるだれかに見せる義務があるって。海や木や光や、きれいなものをたくさん。私が見たことのあるものも、ないものも、きれいなものはぜんぶ」。「もし、そういうものぜんぶから私が目をそらすとしても、でもすでにここにいるだれかには、手に入れさせてあげなきゃいけないって。だってここにいる人は、私ではないんだから」。


 「きれいなものはぜんぶ」を見せなければならないという、未来の「だれか」への「義務=責任」。この母性の強い意志こそが、すれ違う希和子と薫とをいやがうえにも結び付けていく。

 だが、再び、果たして「八日目」の「未来」は誰のものなのか。原作(角田光代)のラストで、希和子はこう思う。


 なぜだろう。人を憎み大それたことをしでかし、人の善意にすがり、それを平気で裏切り、逃げて、逃げて、そうするうち何もかも失ったがらんどうなのに、この手のなかにまだ何か持っているような気がするのはなぜだろう。いけないと思いながら赤ん坊を抱き上げたとき、手に広がったあたたかさとやわらかさと、ずんとする重さ、とうに失ったものが、まだこの手に残っているような気がするのはなぜなんだろう。


 希和子は、薫を育てることで恩寵のようにもたらされる「八日目=未来」の時間によって、自らの「がらんどう」を埋めることができた。だとしたら、「八日目」とは、未来を生きる子供のものというより、半ば以上、子供によって担保される未来の時間を、自らの現在に折りたたむようにして生きて行く「親」のものにほかならない。薫が「八日目」を思い知るのも、自ら子を宿し親の立場に立たされたときであったはずだ。

 だが、「八日目」が「きれいなもの」、「手に入れさせてあげなきゃいけない」ものである保証などどこにもない。「きれいな」「八日目」とは、最近見た映画になぞらえるなら、『100000年後の安全』のようなものだ。

 フィンランドでは、十万年後の安全のために、放射性廃棄物の最終処分場(「処理」場ではない!)を地下深く建設している。だが、十万年後の人間に、「決してここを掘り起こしてはならない」ということを、正確に伝えることは可能だろうか。映画は、このアポリアをめぐる。何せ、逆に遡って十万年前はネアンデルタール人の時代なわけで、彼らとの意思疎通などおよそ不可能だろうからだ。きれいな未来の保存と、そのために未来の他者とつながることはかくも難しい。

 もはや「きれいな」「八日目」は、原発もなく、「人間と自然と神々とかがすべて同じ地平にいる」(成島)という、小豆島というユートピアにおいてのみ可能な「未来」なのかもしれない。たとえすれ違っても差し込んでくる「八日目」の「光」は、私には少しまぶし過ぎた。

中島一夫