岸辺の旅(黒沢清)
現在、映画に現れる幽霊は、いったいどのような存在なのか。
言うまでもないが、映画はずっと幽霊を映し出してきた。画面に現れる人物たちは、実在しないが目に見える存在であり、生きてはいないが死んでいるともいえない、光によって構成された人物の影、すなわち幽霊だ。
かつて中村光夫は、映画=カメラはザッハリッヒだと言う三好十郎の、「素朴実在論的なリアリズムの根柢にある科学的迷信」をたしなめてこう言った。「そこには、「もの」など何もなく、ただ「もの」の影があるだけですから。でなければ何で映画館を暗くする必要がありますか」(「映画は「実在」か」)。
黒沢清は、ずっと幽霊=映画を意識的に撮ってきた映像作家である。その作品において、物語上普通に実在しているはずの人物たちは、一様に幽霊のごとく存在感が希薄で、めったにアップで映し出されることはないその顔は、下手をすると判別すらできないことすらある。
一方、「幽霊」として登場する人物は、逆に妙に存在感がある。だから怖いのだ。その幽霊たちの存在感は、市民社会的なネットワーク=『回路』から漏れ、埋没させられている者たちの『叫』びそのものだろう。丹生谷貴志ふうに、彼らは、「如何なる「言説」の登記からも陥没した場所に「存在」する「誰か」、つまりは「単独者」である」と言ってもよい(「幽霊論」)。
だが、本作の幽霊は怖くないのである。出てくるやいなや、「俺、死んだよ」と宣言するのだから当然だ。三年間、行方不明だった夫の「優介」(浅野忠信)は、「富山の海で死んだ」のだと言う。「死体はカニが食ったから、見つからなかったんだ」。そして、妻の「瑞希」(深津絵里)とともに、その三年間に世話になった人々をめぐる「旅」に出る。
なぜ、黒沢作品の幽霊は怖くなくなったのか。おそらく、ここには個別の問題を超える現在があらわれている。端的に3・11以降、と言ってよい。
いちいちストーリーは追わないが、そもそも優介は、3・11以降の時間にも概ね符合するこの「三年間」行方知れずで、しかも死体が見当たらない以上、生きているか死んでしまったか不明の存在だった。また、旅で最初に訪れた「島影」(小松政夫)の新聞配達屋の部屋は、まるで津波に襲われてしまったかのような荒廃ぶりだった。村の公民館で、村人相手に光や宇宙の講義を行っていた優介は、3・11以降盛んに呼び出された宮沢賢治を彷彿とさせよう。
今作の「旅」は、優介にとってというより、優介不在の失われた三年間を、妻の瑞希が取り戻し、己に納得させるためのものではなかったか。だからこそ、優介という死者=幽霊が「現れる」ことよりも(これだったら「怖い」が)、瑞希を納得させ(だから優介は、何度も彼女に「好きだよ」と言う)、最終的に彼女の元を「去る」ことに重点が置かれることになる。だから「怖くない」のだ。
この「旅」を通して、瑞希は、優介という死者とその世界に、その身を馴染ませていく。最初の島影には、優介の言葉に逆らって、瑞希は「死んだ妻に全然似ていなくてがっかりした」と言われてしまう。それほど死者の世界から遠い存在だった。
だが、次の食堂では、作品冒頭の、瑞希がピアノのレッスンをするシーンの再現かと見まがうほどに、彼女はピアノの前に現れた、死んだ女の子の本当の先生のようだ。ラストの「薫」(奥貫薫)とその死んだ夫「タカシ」の夫婦に至っては、薫は瑞希とそっくりであり、死んだ夫である優介も含めて、夫婦ともども完全にシンクロしてしまったかのようなのである。
このとき瑞希は、自らの死んだ父とも交信できるほどに「岸辺=彼岸」を肌で感じとり、自らを優介=死者の世界にすっかり馴染ませている。優介と結婚する前の恋愛のことなどを、優介に話す気になったのも、その幽霊を何とも近くに感じ取ったからだろう。
ここで、折口がどうとか、いや溝口だとか言うのはやめておく。また、この作家が、天皇(制)やその時代=年号を想起させる作品を、今までいくつも作ってきたことについても措こう。今はただ、ホラー(作家)を終焉させるかのような、この今作の「怖くない」幽霊についてだけ触れておきたいだけだ。その幽霊たちは、もはやこの世ではなく、あの世に興味関心が移ってしまったかのような、死者があふれる3・11以降のこの国の現在を、どうしようもなく「体現」しているように思えてならない。
(中島一夫)