ペイン・アンド・グローリー(ペドロ・アルモドバル)

 脊椎の痛み、何種類もの頭痛、いちいちクッションを差し挟まなければ、床に跪くこともできない。最近は、水を飲んでも喉がつまりせき込んでしまう。喉にしこりがあるのだ。悲鳴をあげ続ける身体は、母から与えられた罰なのか。

 

 主人公サルバドール(アントニオ・バンデラス)は、最愛の母の晩年に「お前は良い息子ではなかった」と叱られる。まるで遺言のように。父の死後、母との同居を拒んだからだ。彼にすれば、当時は映画製作で忙しく、家を離れることが多かったので、母を家にひとり置いていくのが忍びなかったのだ。

 

 もう一度、故郷バレンシアに連れていってほしいという最後の願いもかなえてあげることができず、母はICUでひとり寂しく死んでいった。サルバドールの棄損された身体とその苦痛(ペイン)は、母=自然=故郷への原罪だ。

 

ラストシーンで、少年のサルバドールは「新しい街には映画館がある?」と聞く。母(ペネロペ・クルス)は「家があればいい」とにべもない。このやりとりが、あの「お前は良い息子ではなかった」につながる「原風景」であることは明らかだろう(ネタばれになるので控えるが、ラストシーンを見れば、それが原風景「として」撮られていることがわかる)。思えば、あの時すでに、サルバドールは映画の方を、母は一緒に住む家の方を向いていた。映画は、いつも母=家を遠ざける。

 

 この原罪=映画ゆえに、映画作家の彼の過去は苦痛に満ちている。坂口安吾ではないが、たとえ「叱る母もなく、怒る女房もいないのに」、人は「家へ帰ると叱られてしまう」生き物だ(「日本文化私観」)。

 

 だが、三十年前の自身の過去作『風味』や、かつて書いたテキスト『中毒』との、思いがけない「和解」を通して、サルバドールは過去を現在へと招き寄せ、それを未来へとつなげていくことになる。その時、苦痛(ペイン)は「そのまま」(その後、ではない)栄光(グローリー)へと転じるだろう。

 

 かつて仲たがいしたアルベルトが演じる『中毒』のシーンが素晴らしい。恋人のヘロイン中毒を断ち切ろうと、ともにマドリードを後にしたあの日。アルベルトの語りを聞きながら、マドリードバルセロナを逃げ去ってはまた舞い戻る、あの『オールアバウトマイマザー』の「マヌエラ」の旅の記憶が重なる。きっとアルベルトの芝居を見て、過去の夢へと連れ戻されたのは、サルバドールのかつての恋人フェデリコばかりではないだろう。

 

 サルバドールにとってフェデリコは、あの夏の日にレンガ職人の裸体に覚えた「最初の欲望」の宛先だ。本当はフェデリコと再会した時点で、職人の手紙と絵は、しかるべき「宛先」へと届いていた(フェデリコの存在がサルバドールに母との同居を拒ませたのかもしれないし、母もそれに気づいていたから手紙を届けなかったのかもしれない)。だから、彼は、フェデリコと再会した夜に、残りのヘロインをすべてトイレに流し去るだろう。ヘロインに頼らなくても、彼はもう一度、映画という夢を見られそうな気がしたのだ。

 

 ラストシーンの「カット」の声がかかっても、サルバドールも私も、いつまでもこの夢の続きを見ている。

 

中島一夫