カルロス(オリヴィエ・アサイヤス)

 アサイヤスは、カルロスは現代の神話であり、映画のタイトルは「CARLOS,ROMAN」でもよいと言っている。まさに、どこか「ROMAN」をかきたてられる、久々に魅力的な人物がスクリーンに登場した。

 カルロス演じたエドガー・ラミレスの存在感は、アサイヤスをして「ラミレスを発見したことで映画化実現への確信を得た」と言わしめた。『ドミノ』でこの新星を起用したトニー・スコットも、きっと喜んでいるだろう。

 三部作、5時間30分、ぶっ通しで見ることをおすすめする。頭も体もヘトヘトになるが、その疲労感だけが、カルロスの人生の強度に拮抗し得る。

 冷戦崩壊後、スーダンに移ったカルロスが、スーダン政府・イスラーム教教主アル=トゥラビから、名前を身分も分からないカルロスは「幽霊(ファントム)だ」と言われる場面がある。「信じるのはマルクス主義だけだ」と明言し、「大義を忘れるな」(そういえば、太ったときのカルロス=ラミレスは、どこかジジェクに似ている)とばかりに命をかけて戦うカルロスは、まさに「共産主義という妖怪」(マルクス)の残滓として、「幽霊」のように漂う存在である。

 これは、68年以降、徐々に共産主義が窒息死していく世界情勢のなかで、いつのまにか国家の金で雇われる「テロリスト」に転じていくほかなかった革命家の記録だ。『スパイの世界史』の海野弘は、国際テロリズムは、1968年にはじまったと述べ、まさにこのカルロスをその代表的存在に挙げている。カルロスは、革命家が傭兵のようになっていく、その過渡期の象徴だと。すなわち、これは「革命」が「暴力」と見なされていく過程を、身をもって生きた男の物語なのだ。

 ベネズエラ・カラカスの地下組織、共産党青年同盟としてその履歴をスタートさせたカルロスは、その後パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に参加していく。いわゆる「第三世界論」を背景にした、国家に対抗する「戦争機械」(ドゥルーズガタリ)たらんとした存在だったといえよう。実際、カルロスは、日本赤軍や西ドイツの「革命細胞」(RZ)、バスク祖国と自由、民族イスラーム戦線などと積極的に交通し、離合集散を繰り返す。

 カルロスの生命線は、国家の外部でこれらさまざまな「群れ」を形成しては、中東からヨーロッパにかけて移動し、いつのまにか解散するという、まさに神出鬼没の「戦争機械」たり続けることだ。

 最後、カルロスは、静脈瘤によって睾丸に激痛を覚え、悶絶しているところを、スーダンの情報部に捕えられる。これは、血液が滞留するように、カルロスという「戦争機械」がもはや円滑に作動しなくなったことを示している。その時、彼は、睾丸と同時に脂肪吸引の手術をするほどに太り過ぎてもいた。

 すでに兆候はあった。第一部の終りで、PFLPのヨーロッパ支部代表を殺害してしまったかどで、戦線から離脱させられたとき、カルロスは動かないために激太りし、その時からさかんに睾丸を触って気にしていたではないか。「戦争機械」の停滞が、太り過ぎと睾丸の痛みとなってカルロスの身に現れる。

 したがって、その後訪れる第二部でのOPEC本部襲撃は、一見全体のクライマックスに見えるが、むしろすでに起こり始めていた「戦争機械」の機能失調をそこに見るべきだろう。

 PFLPと協力関係にあった、イラクサダム・フセインは、クルド人独立運動を阻止するために、彼らの背後にいるイランとの戦争資金を調達する必要があった。そこで原油価格を30%値上げしようとするが、穏健派のサウジアラビアが反対、そこでサウジとイランの石油相の暗殺を目論んだ。そこに白羽の矢が立ったのが、カルロスだった。

 大規模なOPEC乗っ取り作戦が、派手に活写される。だが、これは明らかに、石油危機を背景にした、世界のエネルギー政策の大転換をともなうポストアメリカのヘゲモニー争いという、いわば「大文字の闘争」だった。これに加担することは、戦争機械たるカルロスにとってはもろ刃の刃となる。OPECも一枚岩でない以上、国家間の抗争に巻き込まれること必至だからだ。

 おそらく、カルロスはこの時点で、あくまで国家の外部的存在たる戦争機械であることを維持することの困難に陥った。現に、当初作戦を支持していたはずのリビアカダフィは、いざ人質を乗せた飛行機をトリポリに着陸させようとすると、作戦中にリビア随行員が撃たれたことに激怒してこれを断固拒否、チュニジアにも着陸拒否されたカルロスらの飛行機は右往左往し、結局はアルジェに戻ることを余儀なくされる。そして、アルジェリアとの身代金交渉に応じざるを得なくなるのだ。

 もちろん、仲間からは「汚い金に妥協するのか!」と罵倒される。「群れ」は決裂していく。その後、シリアであろうとリビアであろうと、単に金で雇われる傭兵=テロリストとなり果てていくカルロスの姿は、このときすでに兆していた。

 それを、所詮は、金持ちの法律家の道楽息子にすぎなかったと言うこともできよう。カルロスの父は、三人の息子に、それぞれイリイーチ(カルロスの本名)、レーニン、ヴラジーミルと名付けるほどレーニンを崇拝していた。そして、カルロスを、第三世界の革命家を養成する、モスクワのルムンバ大学に入れた。カルロスは、その頃から、父の仕送りで遊びまわり、プレイボーイぶりを発揮していたという。

 だが、映画は、そのあたりの前史をばっさりと切り落とし、あくまでカルロスが「カルロス」になった以降を追う。すなわち、そうした個人史を超えて、第三世界主義による革命は、いかに時代の必然であり、だが同時にいかに困難だったかを体現する人物「カルロス」として描きだそうとしている。

 アサイヤスは、カルロスを「ある時代に増えはじめたシニカルな傭兵」と評している。的確だろう。そして、革命を前にしたこのシニカルさは、たとえカルロス個人が退場しても、世界中に「ファントム」のごとく不穏にたちこめているではないかと、映画は言っているのだ。

中島一夫