千坂恭二『思想としてのファシズム』

思想としてのファシズム

思想としてのファシズム

 戦後が忌避してきた、軍や戦争、死への思考をとり戻そうとする本書は、安保法案反対を、「戦争反対」のロジックと言葉でしか表現し得ない「国民」の現在を目の当たりにするにつけても、極めて刺激的な試みである。例えば次のような一節。

言葉はすべからく比喩だとすれば、戦後は、その当初から、戦後以降とされる今日まで、明らかに言葉の対極にあった。戦後は比喩ではなく、言葉の真実を求め、そして発見した「真実」という事実の中に言葉を溶解してきた。行為そのものは、行為に加えられる言葉とは別であり、そして他者の行為はすべて言葉だとすれば、蓮田(善明)や三島の「死」もまた、比喩ではなく、事実の中に解消されてきた。(中略)戦後ならびに七〇年代以降の日本が封印し、隠蔽してきたのは、この比喩である。なぜなら戦後の精神とは「私」であり、「私」は自分が何かの比喩であることの否定の上にあるからである。(「蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜」)

 本書は全編、この「比喩」の力をとり返そうとする言葉に満ち溢れている。

 ただ、ここでふと考え込んでしまったのは、逆に三島自身は、戦後が比喩「でしかない」ことにいらだち、まさに戦後を「鼻を摘まみながら通り過ぎた」のでないかということだ。

 三島においては、戦後の出来事や行為は、すべて言葉=比喩でしかない。「行為は言葉、言葉は行為であるという循環論法の世界にときどき耐えられなくなる」という三島は、だからこそ「絶対言語に戻ってこられないような行動というものがないのかしらという夢」を抱いてきたはずだ。

しかし、ぼくには変な固定観念があって、行動というものは絶対自分でするものだ、人を動かさなくても自分でするものだと思っている。その結果生ずるものは、自分だけ死んで笑われるかもしれないけれども、それでもいいじゃないかという考えですね。(中略)早い話が、石原慎太郎参議院に出るのが行動か、行動と思わない。衆議院に出る、それも行動じゃない。プラカードを持ってデモに参加する、行動じゃない。では何が行動か、それは文学だ、というふうにどうしても落ちつかない。(中村光夫との『対談・人間と文学』)

 三島の言う「行動」が、選挙に出ることやデモに参加することではなく、「戦後」民主主義=議会制民主主義の外、すなわち「言葉=比喩」の外にあるものだということは自明だろう(だからこそ、「言葉=比喩」を、現実や真実、行動の表象と見なすリアリズム(≒議会制民主主義)を徹底的に批判した中村光夫と、「左右」を超えて上記の濃密な対談が可能となったのであり、それがつまりは「68年」ということだったとも思うが、今は措こう)。

 三島は、「言葉=比喩」の外に出て、「絶対言語に戻ってこられないような行動」として自決を選んだ。だが、千坂の言うように、それが単なる「私」的な「事実」になり下がってしまったとしたら、それは戦後が比喩を隠蔽してきたという以前に、そもそもその自決が、「私」的な「行動」だったからではないか。

 それこそが、「行動というものは絶対自分でするものだ、人を動かさなくても自分でするものだ」という、三島の「行動」の本質だったのではなかったか。そしてそれが、よく言われるように、「楯の会」は「戦争機械=群れ」になりきれなかったゆえんではないだろうか。

 おそらく、三島に「行動というものは絶対自分でするものだ、人を動かさなくても自分でするものだ」と考えさせたものこそが「戦後」だった。それは、行動を、孤立的に分断されたものとして捉えさせ、そのうえで言葉=比喩の外部にあるものと位置づけさせた。

 だが、むろん、これは本当は「戦後」の問題ではない。「芸術と実行(実生活)」の問題として、すなわちずっと文学の、すなわちリアリズムの問題としてあったものだ。言い換えれば、「戦後」は文学(文化)に包摂されたのであり、「戦後」自体が転向したのである。したがって、「戦後」批判は、いまだなお、まずもって文学批判でなくてはならないだろう。

中島一夫